2012年01月24日

悪魔に食われろ青尾蠅 / ジョン・フランクリン・バーディン著 浅羽莢子訳

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年末年始は久しぶりにミステリを少々。
創元推理文庫の黄緑帯、「本格」カテゴリが大好きでファン歴は10年以上、クイーンやダイン、チェスタトン、カーなどこんな最高のラインナップは他に無い!
この本もその黄緑カテゴリなことに加えて個性的なタイトル、さらに「幻の傑作、文庫化」という帯文に惹かれて読んだのですが、先に言ってしまうとこれは黄緑よりもオレンジ、「サスペンス」のほうがしっくりくる。
もう少し論理的なトリックや謎解きを期待してしまいあてがはずれた…のですが、結果的にとても新鮮で面白く読めました。

“精神病院に入院して二年。ようやく退院が許されたハープシコード奏者のエレンは、夫の待つ家に帰り、演奏活動の再開を目指す。だが楽器の鍵の紛失に始まる奇怪な混乱が身辺で相次ぎ、彼女を徐々に不安に陥れていく。エレンを嘲笑うがごとく日々増大する違和感は、ある再会を契機に決定的なものとなる。早すぎた傑作としてシモンズらに激賞され、各種ベストに選出された幻の逸品。"
とのあらすじにもあらわれているように、文学的な面が強い作品でした。
以下、多少のネタバレがあるかもしれませんので読むご予定の方はご注意ください。



精神病院から物語は始まりますが、主人公エレンが入院したその原因はすぐには言及されずに時間が進んでいきます。
秀逸で美しい表現、澄んだ五感の持ち主からしか奏でられない言葉のメロディ。


たとえば、ハープシコード奏者であるエレンの演奏中。

“過去はこれが始まる前に終わり、未来はこれがすむまで始まらない。
これは今ここにあって否定を許さない。
永遠の一瞬、打ち消しも反論も許さず、忘れ去られることを拒否する力強さと実体を持っていた。
これがあればエレンは唯一無二のものになれた。
これ自体が唯一無二であるように。
これなしでは自分も存在しない。
この音楽を喚起する力が頼れるものは、罫線の引かれたページ上の黒い記号に対するエレンの解釈、エレンの指の器用さと体のリズム感、音の質はどうあるべきかというエレンの知識。
だがエレンもまたこれが頼りで、これなしには自分という人間がわからない。

この音が存在する時は理解力が備わり、人生が意味と秩序と道徳を持つ。
これはエレンのめざすもの、エレンはこの手段。"


実は上の引用は物語のかなりあとのほうに出てきて、読み返すと様々な含みが感じられる部分。
美しいだけでなくあとの展開への予感を薫らせる、著者の天才が発揮されている箇所のひとつ。
クイーンマニアで緻密なトリックや謎解きが大好きな私は、こんなにひとりの内面が細かく繊細に描写された推理小説は読んだことがありませんでした。


最も謎に満ち不可解なのは人心。
人が「考えた」トリックや仕掛けよりもずっとカオティック、論理的でない分一層恐ろしい。

ミステリ慣れしてしまっていると「今回はこういうパターンか」という感じになりがちなのですがこの作品はまったく予想外、いつもと違った意味で完全に裏切られました。
そうか、だから黄緑なのかも。


普段ミステリを読まない方にもおすすめですが、飽き飽きするほど読み尽くしちゃって趣向を変えてみたい方に、ぜひ読んでみて欲しい1冊です。


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2012年01月15日

別冊太陽 木村伊兵衛―人間を写しとった写真家

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この特集で見るまでは実は木村氏の写真を拝見したことはなく、佐内正史さんのファンになって「木村伊兵衛賞」という名前で知っているだけでした。
生誕110周年だった昨年、神保町の古書市でオリジナルプリントが40点も“発掘"されたということで巻頭に掲載されています。
もともとたくさんあったプリントは、生前ご本人が燃やしてしまわれた、などのエピソードとともに。

“写真は印刷物になってはじめて作品になるのであって、プリントは途中の工程にすぎない”と考えていらしたそうです。
その燃やしてしまったプリントたちは"写真家たちが真似したくても出来ないほど”、“神の手と誰かが言ったほどに絶妙”だったとか。
印刷物になってこそ、というところでギィ・ブルダンを想起。
ファッションフォトを中心に活動していた彼は、雑誌の見開きを意識して撮っていたそうです。
ファッションフォトのように計算され尽くした数学的な美も好きですが、
この木村伊兵衛さんの“自然さを尊重”した写真にすっかり虜。
佐内正史さんが受賞されているのも納得!

“日本写真界を代表する木村伊兵衛(1901-74)の生誕110年記念号。厳選された200点以上の写真をジャンル別に構成し、詳細な評伝と初公開のヴィンテージ・プリントを収録。”
というこの雑誌は私のような初心者にも、ファンの方にもおすすめしたい1冊。



「自分の目がカメラになったよう」な、自然な写真を撮る人の元祖がこの木村伊兵衛さんだったのか!
心眼の透明さがなければ不可能な写真たち。
空気やにおいまでそのままフィルムにおさめる。
技を駆使するというよりむしろ何もせず透明であるような写真家の姿勢。
きっと自分という存在を消すための“技”は自分を主張するための技よりもずっと難しい。
なんだか生きることにも通じるような。


たくさん掲載されている写真の中に「満州」があって、以前佐野洋子さんの著書で読んだ幼少期の満州体験談に写真がついた感じがした。
歴史の教科書で読んだだけの史実だったものが、本の中だけじゃなく現実にあった世界として立ち上がっていく。
生きることは、体験すること。
本を読むことももちろん体験のひとつではあるけれど、自分の五感をフルに使った体験をもっとしたい!
自分の目で見て感じてにおって触って、自分の記憶に遺したい。
手触りのある写真のおかげか、旅行雑誌を見ていたときよりもずっと、どこかに出掛けて行きたくなりました。
最近めっきり出番の減った自分のカメラと一緒に。


なんて触発してくる写真だろう。
この人の写真、もっともっと見たい!


p140からのブックリストを参考に、古書“発掘”に神保町に行こう。

結局MAGAZINE&BOOK ADDICTな自分。。。

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Bird TRANSIT for girls 2011.10

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旅がしたい。
なんて思うことはほとんどありません。
あの美術館に行きたいとか、目的地があれば別だけどそれすら滅多にない。
おそらく理由は、本や雑誌のほうが好きすぎるから。
基本的に出不精なんだろなぁ。
それでも本屋のためなら割と遠出も苦じゃないかも。

何が言いたいかというと、旅行雑誌が大好きなんです。
いちばん好きなのがご存知「TRANSIT」。
そしてなんとその女子向けが出ているじゃないですか!
いや基本的には「女子◯◯」とかつけられると馬鹿にされている気がして(偏見)あんまり買う気がしないのですが、この雑誌は表紙の写真に一目惚れして買っちゃいました。

加えて、どんな雑誌も創刊号というのは気合いが入ってて素敵。
何事も、始めることより続けることのほうが難しい、最初の志というかポリシーがどんどんぼやけていくことも多い。
NEUTRAL時代から大好きだったTRANSITの姉妹誌の創刊ということで高まる期待!

表紙の写真は、ロウアー・アンテロープ・キャニオンというところだそうです。
これは体験したい!!

この号で一番印象に残ったのが、若葉のころーGirls portraits in San Franciscoという嶋本麻理沙さんの写真たち。
ポートレートって不思議。
撮る人も撮られる人も人間性が出るし、2人の間の関係性も出るような。
自分も嶋本さんに撮られてみたいなと思わせる写真。
というよりむしろお会いしてみたいです。

美しい写真やインディアンの部族や文化についての「読む」コンテンツなど、TRANSITの良さを保ちつつもファッションページやおみやげものなど女子向きにうまくシフトしていて好感!
やっぱり、かわいいものに惹かれちゃう乙女心。
安くてかわいいものをみつけた時の高揚は「そういえば自分も女の子だったんだ」と実感させてくれます。

この創刊号は去年の秋号。
まだ次は出ていないみたいだけど、これからが楽しみな雑誌です。

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タグ:bird transit
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2012年01月09日

苦海浄土 / 石牟礼道子

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3月11日以降、原発/東電関連のニュースが流れる中、まず読もうと決めたのがこちらの本。
以下に引用したあらすじと池澤夏樹さんのコメントを読んで。

“「天のくれらす魚」あふれる海が、豊かに人々を育んでいた幸福の地。しかしその地は、海に排出された汚染物質によって破壊し尽くされた。水俣を故郷として育ち、惨状を目の当たりにした著者は、中毒患者たちの苦しみや怒りを自らのものと預かり、「誰よりも自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの」として、傑出した文学作品に結晶させた。第一部「苦海浄土」、第二部「神々の村」、第三部「天の魚」の三部作すべてを一巻に収録。”

〈ぼくがこの作品を選んだ理由 池澤夏樹〉
“ある会社が罪を犯し、その結果たくさんの人々が辛い思いをした。糾弾するのはたやすい。しかし、加害と受難の関係を包む大きな輪を描いて、その中で人間とは何かを深く誠実に問うこともできるのだ。戦後日本文学からこの一作をぼくは選んだ。”

「糾弾するのはたやすい。」本当にそう。
非難するということは、自分の責任ではないと、他人事だという意思表示。
「政治が云々」「会社が云々」「ああすべきだった」「こうすべきじゃなかった」
人に言うのはなんて簡単なんだろう。
じゃぁ自分がその立場だったら?もっと違う結果にできただろうか?

この「苦海浄土」を読んでいるとますます、言葉を失う。
人は、何度同じことを繰り返しているのだろう。
怒りを、悲しみを、もうこんなことが起きないようにという願いを。

誰も、自分と同じく弱い、ただの人間。
どうして他人にだけ超越した強さを求められる?
私には、できない。
だからといってもちろん許されることじゃない。

資本主義の中で、利益を奪い合う戦争のなかで、利益を最大にしなければ怠慢だとクビになりかねない会社の中で、
その大きな流れに逆流できる個人はどれほどいるだろう?
そういう組織の中でトップになるような人間は、誰よりも利益を優先し結果をあげてきた人間では?
そのトップの人間を説得し利益よりも社会倫理を、と説得できる人は?
チッソや東電が生まれ育った高度成長期に?

そんな人として立派な人は、この本の中にはたくさんいるけれど、実際はいたとしても知られることはほとんどない。
そして大流は継続する。
大河はそう簡単に流れを変えられない。
大勢の躯を置いていきながら。
直視しないように直進する。いや、直視してもなお。
チッソと政府の対応は、まるでいまの東電と政府をみているようだ。
無力感。
ここへきて、大河は流れを少しは変えただろうか。
変えるのは他でもない私、私達であるべきではないか。
いまの私は、大河の流れを前に茫然自失としているだけでは。

しりあがり寿さんの原発関連漫画でもやっぱり「川」として描かれていた。
行き着くのはすべて呑み込んでくれる海。
汚れるのはいつも海。
現在の海床が堆積し岩になる頃、人間はまだ存在しているだろうか。
私たちが垂れ流した汚物が地球の一部に還る頃に。
どんなひどい層ができるだろう?それをまた地球は美しい化石にしてくれるだろうか。



“この日はことにわたくしは自分が人間であることの嫌悪感に、耐えがたかった。
釜鶴松のかなしげな山羊のような、魚のような瞳と流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄は、この日から全部わたくしの中に移り住んだ。”
− p83

私は、共有したと感じた。
石牟礼道子さんと、人への恐怖、憎悪、愛情、尊敬、そのほんの少しだけを。
私には全部ある。加害者チッソの人間のように行動する可能性、被害者になっていた可能性、被害者を差別する市民だった可能性、被害者への支援活動をしていた可能性・・・
運命のようなもの。どの運命もひとごとではないと思った。
そして嫌悪。
自分も加害者である。
自分も被害者である。
自分がすべきことは何だろうか。
自分にできることは何だろうか。
人間を、自分を、憎みあきらめ遠ざけることは簡単だ。いつでもできる。



“安らかにねむって下さい、などという言葉は、しばしば、生者たちの欺瞞のために使われる。
このとき釜鶴松の死につつあったまなざしは、まさに魂魄この世にとどまり、決して安らかに往生しきれぬまなざしであったのである。・・・”
− p83

“まことにわたくしどもは、いわれなくして生きながら、この世の地獄に落ちました。身に負うた病のみならず、原因がチッソによって隠匿されている間に、業病と忌みきらわれ、伝染病と追いはらわれ、とじこめられ、おなじ地域社会の中で、村の井戸を汲むこともできず、食べものを売ってもらえない地獄にも落ちたのでございます。…”
− p412

人を地獄へ落とすのは、人。
悲しい。醜い。情けない。
人間は、私は、どうしてこうも弱いのだろう。
どうしたら、人間はもっとよくなれるだろう。

やっぱり私はこの問いに還る。
「人間とは何か」。
それを求めて今まで哲学や文学や科学の中をうろうろしていた。
石牟礼さんが示してくれた「苦海浄土」というひとつのかたちは、今まで読んだり見たり聞いたりしたどれとも違っていた。
登場人物とともに声をあげ、闘った年月。フィクションと違うのは当然と言えるかもしれないけれどそれ以上に、
心が、澄んだ心眼が、天才的な言語表現が、生れ育った環境が・・・と数え上げるとほんとにこの本が生まれたのが奇跡のよう。


この本と引き合わせてくれた池澤夏樹さんに感謝します。


今の石牟礼さんの言葉を聞きたい、と思っていた折に、こちらを見つけました。

「3.11を心に刻んで」ー岩波書店Webサイト (http://www.iwanami.co.jp/311/top.html)から一部引用
“苦しゅうして苦しゅうして、もう全部許すことにした。
チッソも、病人をさげすんだ人々も全部許す。
人を恨むことはやめた。
この辛い病気は誰にも病ませたくない。
全部私たちが荷ってゆく。

今は亡き、水俣病患者、杉本栄子さんの亡くなる前の遺言である。…"


私の、生きている限り更新されるであろう人間観は、私の最期にどんな感情を遺すだろう。
私は、何と言ってこの世を去ることができるだろう。
善く死ぬために善く生きる。明日で私の時間は100%かもしれない・・・


この本、生きている間に、もう一度読もう。


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2012年01月07日

MUSICA Vol.52 2011.08 SEKAI NO OWARI

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あけましておめでとうございます。
新年を迎えたこの機に、再開しようと思います。
読書は続けていたので、復習してない本がいま25冊。
全部復習し終わるのはいつごろ・・・?
買うだけ買って、雑誌もたまりにたまってます。

まずはブログタイトル通り、雑誌から!

年末に行ったカウントダウンジャパンで初めて聴いて以来毎日聞いている「SEKAI NO OWARI」特集!
そう、半年前の号です。。。
大好きなDr.Downerのインタビューが大きく載っていたので購入し、ほんとにちゃんと読んだのはダウナーのページのみ。
巻頭のSEKAI NO OWARIはピアノの女の子、藤崎さんがかわいかったのでそこだけ読んで、「どんな音楽なのかなぁ?」と思いつつも検索すらしないまま、カウントダウンジャパン最終日に観たいバンドがなかったのでたまたま観たらもう、ライブ終りに会場のHMVで音源を買って以来聴きっぱなし。

天才だと思います。あ、もうみんな知ってるか。


かなり異色のバンド構成、DJとピアノ!?ドラムなし!?
でも音は最高!

声に、歌詞に、心の白さ、透明さが全部出てる。

“どうして死んでしまうの?”(死の魔法)
“「神様、人類を滅ぼして下さい」「神様、私たちの世界に平和を」”(世界平和)

ほんとうに子供のような純粋な問いかけ、まっすぐなメッセージに、私は返せる言葉がない。


ボーカルの深瀬さん作詞作曲の「死の魔法」「世界平和」のあまりの純粋さ、残酷さに背筋が寒くなった。
考えが足りないとも思った。
それを大声で歌う彼に魅かれた。憑かれた、という感じかもしれない。
忘れ汚れあきらめてきたいろいろな自分の感情がそこにある。
共感したからこそ恐ろしく、愛しい。
こんな感情はじめてだ。すごい!嬉しい!
どんな気持ちで彼はこれを?どういう意図で?
共感しつつ理解できない。中毒要素を網羅してる彼らにはまらないでいられるはずなかった!

ノリが良くてメロディックで踊れる、でもちゃんと聴くと毒にあたる。
CDJでは「スターライトパレード」から「虹色の戦争」でいきなり最高潮の盛り上がりでもう一目惚れ!
そしてピアノの藤崎さん作曲の「Never Ending World」、このインタビュアーさんがベタ褒めなのも納得の名曲、のようにすごく聴かせる曲も豊かで。
たまらない!完全ファンです。
またライブ観たいなぁ。
この号の4人のソロインタビューはファン必見です。

もともとお目当てだったDr.Downerのインタビューも、読んでますます惚れました。
CDJでのライブパフォーマンスも最高!!


今年は貪欲にライブ行くぞ!!


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2011年08月28日

日経サイエンス 2011.10 シュレーディンガーの鳥を探して 生命の中の量子世界

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近頃金曜の夜中のお楽しみが「輪るピングドラム」というアニメ。
深夜の放送だけあって、子供向けらしからぬエピソードがたくさんあります。
なかでも最近、セリフ中に「シュレディンガーの猫」が出てきてびっくり。

そしてタイムリー?なことに今号の日経サイエンスは「シュレーディンガーの鳥」。
猫じゃなくて鳥?そいつは初耳だ、と立ち読みしてみたら、衝撃。

なんと、今では、量子力学と古典力学の境目はなくなりつつあり、それどころか生物の体内というマクロな世界でも量子効果が起きていることがわかってきたとか!

以前、シュレーディンガー「生命とは何か―物理的にみた生細胞」を読んだときには、今よりももっと何もわかっていなかったけれど、量子効果によって突然変異が説明される可能性について既に記述があった。
その、裏づけを可能にする技術の進歩。
この記事、非常にエキサイティング!!

なぜ「鳥」かというと、渡り鳥であるヨーロッパコマドリの目の中に、量子もつれ状態がある可能性が高いそうだ。
ミクロの世界でしか確認できなかった量子効果が、動物の体内で起きている。
それらを研究する「量子生物学」という分野がひろがっているらしい。
私が生きているうちに、古典力学は量子力学に統一されるのでしょうか。

「デコヒーレンス」、情報の漏れ、「観測」するとしないの違い。
根本的に理解するのは難しいけれど、量子論について読むのは大好き。
量子コンピュータの実現を考えるとワクワクします。

量子論について読んでいると、この世界は3または4次元ではなく、本当に多次元なんだろうなぁと思えてくる。
そうじゃないと直感的に受け容れられない、想像が描けないから。


茂木健一郎さんの本で出てきた、「電子は世界に一つしかない」というジョン・ウィーラーの衝撃的な仮説を想起した。
あれも、世界が多次元ならありえるかも。


今、「純粋理性批判」を読んでいるのですが、カントの時代の空間と時間の概念がまた、乗り越えられようとしている、再びコペルニクス的転回が起きる!?
ドキドキワクワク、SFより現実のほうが面白い!
もちろんアインシュタインをはじめいろいろな転回を経ているんだろうけれど、何分無知なもので。

哲学はやっぱりすべての学問の基礎。
私自身無知なのでカントを読んでその天才に感激したり、なるほどと思ったりはしても、やっぱり現代人なので聞きかじったアインシュタインの時空論なんかが頭を掠めてしまう。

科学は哲学を超えていく、いや超えているのでしょうか。
いやそもそも科学も人間の考えること、哲学あってこそ?
どちらでも良い、どちらも面白い!

進歩した科学を手にした人間は、可能的経験の範囲を劇的に拡張し続けている。
月に立つ人間など、カントは想像していただろうか?

でも少なくとも、日本すら出た事のない私は、最先端科学について無知な私は、現在から見たらとても遅れているであろうカントの世界観に共感する。現代人とは言っても、知識や経験は遺伝しない。得ようとしなければ得られない。最高に専門化された科学でつくられた世界観は、直感に反すると感じる。

いや、それもまた慣れかもしれない。カントがある程度まともに読めるようになるまで苦労したような気がする、慣れると忘れてしまうね。

生れたときはまっさらだから、どんな生活を送るかで世界観は全く違う。
神話的宇宙観と科学的宇宙観、今後もどちらも必ず誰かの中で生きていくのだろう。
あるいは両方が、ひとりの人間の中で。
科学が進歩する世界というのは、宇宙観の差が広がる世界なのだろう。
人間はその間で引き裂かれていく、きっとこれからも。

だから、哲学は必要なんだ。


そんでこの記事の次のページにムック「時間とは何か?」の広告が入ってたりして、うまいよなぁ。
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つい買っちゃうじゃないの。

あとブックレビューにあったこの本も面白そう!
スプーンと元素周期表: 「最も簡潔な人類史」への手引き
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“元素にまつわるドラマ”が大盛り、だそうです。
タイトルのスプーンは、融点の低いガリウムのスプーンでの悪戯のエピソードから。

そのほか、「知能の物理学」、脳の進化と物理法則について書かれていてこれもまた面白かった!
巻頭の小トピックも「塗って作るトランジスタ」など、読み応え十分!

理系の勉強をやり直したくてしかたないこのごろです。

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2011年07月18日

TRANSIT 13号 永久保存版! 美しきフランスの浪漫

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表紙の写真に釘付け。
エッフェル塔の造形美をこんなに表した写真みたことない!

写真といえば、この雑誌の広告写真はこの「TRANSIT」の誌面にマッチした美しい写真が多い。
厳しい基準があるのでしょうか?
どの雑誌を見ても同じマス型広告のように「我が我が」とPUSHせず溶け込んでいるのに好感。
「FRANK DANDY」の広告ページは、記事と同じ宮本武さんによる写真。

p25のバレリーナに魅入ってしまう。

美しい筋肉。ヴァレリーの「魂と舞踏」を想起する。
そう、今回はヴァレリーの国、フランス!


表紙の写真は「ライトアップが終わったエッフェル塔を、月の明かりを集めてとらえた」そう!
現実を抽出する方法の多様。写真はやっぱり面白い!!


p31、キュートなおばあちゃん!
おしゃれなおばあちゃんは街を元気にする。
都会に住むようになってびっくりしたことのひとつ。地元と全然違う!
なんていうか、おばあちゃんらしいおばあちゃんがあんまりいない。

都会のおばあちゃんには元気づけられる。
もんぺで畑に立つ田舎のおばあちゃんには、ほっとする。
自分のおばあちゃんの、長年の苦労が滲んだ顔を思い出す。
私に向けてくれた最高の笑顔を思い出す。頭に残るのはいつも笑顔のおばあちゃん。
おばあちゃんみたいなおばあちゃんになりたい。とっても尊敬しています。
まだまだ自分からは遠いなぁ。



p36、フランス美女と日本人男性のカップルの写真に浮ぶランボーの詩。
ランボーってこんなにロマンティックなところもあったのね。
唯一読んだことのある「地獄の季節」はもっと憂鬱な印象。


p54からは沢山の写真家が!
ギイ・ブルダンやっぱり刺激的で大好き。

p70、デュシャンも!
数年前、横浜美術館かどこかで見たたくさんの「レディ・メイド」たちに毛穴全開になった。
「シュルレアリスム」のページで紹介されているのは、ブルトンと深い友人でシュルレアリスム展のキュレーターをしばしばしていたからだそうです。


p76〜、南フランスの牧歌的な風景たち。

少し感じたのは、自分自身が旅に行くよりもこうして雑誌で写真を眺めることのほうが好きなんじゃないかということ。
その代わり、行って気に入ったらなかなか帰ってこれなそう。
チェコだけはどうしても行きたい!


p100、フランスの思想地図。
このページ、一番面白い!!!

ドゥルーズ、ガタリ、デリダ、レヴィ=ストロース、レヴィナス、もちろんフーコーやサルトルも。
日本のところには柄谷行人さんから村上隆さん、茂木健一郎さん!
浅田彰さんや柄谷さん、中沢新一さんらを「ニューアカ」と呼ばれるのは初耳でした。
勉強不足の私はまだまだ現代思想におっつかない。
早く柄谷さん読みたいから、自分でカント読みたい。
カントが無いとはじまらない・・・


それにしても、文学特集が無いのが不思議。
文学史も追って欲しかったな。
スタンダール、デュマ、ジッド、バルザック、ユゴー、ヴァレリー・・・
名作だらけで挙げたらきりが無い!


思想も歴史も地理も食も・・・読めば読むほどフランスに行きたくなる!
・・・と浮かれながらめくったp156、「フランスはなぜ原発大国となったのか?」
すとん、と地に足がついた。


日本とはまったく意識が違う。
フランスで原子力政策をはじめたのはド・ゴールだそうです、知らなかった。
海に囲まれ、憲法9条を持つ日本とは根本的に違う考え方。
中野幸紀さんのわかりやすいお話。

3.11以降すべての文脈が変わった。
世界のすべてがつながっている証。
ヘラクレイトスが予言者のように頭をめぐる。
“万物は流転する”、近頃のキーワード、カントにもプラトンにも、「苦海浄土」にすら共通する。

現実を直視したくないわけではなく、核となる人間観をつくるのが目的ではあるけれど、古典を読んでいると安らぐ。
現実をそのまま飲み込んでも混乱が深まるばかり。
現実そのものよりも一歩深めたところからヒントを与えてくれるのは、長い時を経てきた先人達の智慧。
膨大な情報量で進行中の現実を、そのまま食べては消化できない私なりの調理方法。
もそりもそり、少しずつ噛み砕いて排泄していこう、それしかない。

今日はこれから、プラトン先生と一緒に。


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FOIL vol.3 HOPE

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約2年半ぶりの第3号。
奈良さんの絵の穏やかさと強さに、いまこの雑誌を出すことへの「想い」を感じる。


“3月11日の大地震を境に、それまでとそれ以降で、いろいろなものの見え方が変わりました。
東北に住む多くの方が家族を亡くし、家を失いました。 
日本に住む私たちの生活もまた、原発事故の下、放射能漏れで多くの不安にさらされています。
ここから日本経済は壊滅的な状況をむかえ、その恐怖感は閉塞感すら生み出していくのではないでしょうか。
だからこそ、すべての人が「希望」を持てるような、少しでも元気になれるような雑誌がつくれたらと願い、特集「HOPE/希望」を発売いたします。
ヴィジュアル誌という枠を超越し、テキストも交えた、34名のアーティストが一堂に会したまたとない一冊になりました。”

34人の皆さんの、それぞれの「HOPE」。


大橋愛さんの写真、すごくあたたかくなった。
これから、できるだけたくさん「抱きしめる」をしたい。
言葉を持たない動物たちにも、言葉じゃ足りない人間たちにも。

言葉だけで抱きしめることができる人もいる、チェーホフのように。
作品だけで人を暖めることのできる稀有な人。
私は本当に羨ましい、そして嬉しい。
私も、私もそうなりたい。


さとうりささんの絵に癒され、長野陽一さんの写真に傷つき、いしいしんじさんの文章に考える。
心が、健全に活動していく。

寄稿された方々ひとりひとりの作品が、よくある言い回しですが、「足し算」じゃなく「掛け算」になっていく、それが「編集」の力。
それは人間の本質的な能力で、ある程度誰もが日常的に行っている、だからこそこうした「美しい」編集は誰にとっても参考になるもの。
偶然に任せてもいい、計算し尽してもいい、自由。
計算し尽くされて偶然のように見せる、という技巧も大好き。


今回一番印象に残ったのは、スン・ウー・バックさんの写真でした。
普段は没個性的に見える都会の風景の中の美。
目が違うとこんなに見えてくる。
日常が、一層尊くなる。
そうだ、自分も、もっと何かしたい、この美しい世界のために、そんな風に思えてくる。


明日晴れたら海へ行こう。


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2011年07月10日

おれはねこだぜ / 佐野洋子

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なんともかわいいこのタイトル。
に対してこの悪そうな顔。佐野さんの描くねこは全然かわいくない。

もう、人の顔そのもの。


“何よりも魚が好きで、魚の中でもさばが大好きなねこがいました。ねこが林の中を歩いていると、たくさんのさばが、ねこをめがけて泳いできます。魚たちは、きれいな声でうたいます。「きみはさばをくっただろ」…。”

Amazonの商品説明に“ブラックユーモア”とか“ナンセンス絵本”とか書いてあるけど、全然私はそうは思わない。
全然ナンセンスじゃない、人間ずばりを描きすぎていて、バカみたいで、悲しくて、笑える。


ねこはさかなを食うもんだ。食わなきゃ生きられない。
食ったさばがおっかけてくる、ねこは目をつぶって逃げる。
さばを食って何が悪い。だって「おれはねこだぜ!」

さばが追って来なくなったらまたねこはいう。
「さて、ひさしぶりに今夜はさばでも食うか。」


人間をおっかけてくるのはなんだろう。
牛や豚?食べてる生きものたち?それだけじゃない。
地球がまるごとおっかけてくる。人は、目をつぶって逃げてきた。
人間がおっかけてくることもある。「苦海浄土」を思い出す。人は、目をつぶって逃げる。
「冗談じゃない、何が悪い、おれは○○だぜ!」
食わずには生きていけないんだよ、しょうがない。

ねこがさばを食うのをやめるときは、これ以上食っちまったら二度と食えなくなる、と思ったとき。
それまではきっと食い続ける。いや、それでも食い続けるかもしれない。
そうやっていなくなってきた動物たちがどれくらいいただろう。
そうやってなくなりつつある資源がどれくらいあるだろう。

人間の欲は果てしない。
理性はそんなに無力なのだろうか。
プラトンだったかアリストテレスだったかが言っていた。
人は、無智なうちは、先にある大きな喜びよりも目の前の小さな喜びをとってしまう、
たとえば長い目で見たら、豪華な食事ばかり食べて病気になるよりも身体に良い食事を食べて健康でいるほうが良いと誰でも思うだろう、でもおいしそうなご馳走を目前にすると、人は判断を誤る。
だから、真に自分にとって良く生きるために、何が自分にとって真に良いことか、判断できる智慧をつけることが必要だと。

今21世紀。人はどのくらい変わったでしょうか?
「持続可能性」なんて、あたりまえにも思われることがキーワードになるくらいには変わったのかもしれない。

ずーっとくりかえしている、まぬけで、バカで、悲しくて、笑っちゃうね。
だから面白いし、好きなんだろう。ねこも、ヒトも。

そしてどうしようもなく私はポスト資本主義を望んでしまい、自分の足りない脳みそに読書で栄養を与える。ちょっとはマシになるようにと。
柄谷行人さんの「世界史の構造」、まだ序文と目次だけでかなり期待を寄せちゃっている次第です。
誰かがやってくれるのを待つのではなく、自分で考えるために。
じゃぁ、自分は本当にどうしたいのか、どうすべきなのか?を考えるために。
考えないと動けない人間、バカにされてもしょうがないけれど、そう、バカだからなのです。
バカで、臆病で、死にたくないから突っ走れない。これはもう性格というか、性質。
せめてもちょっとだけ、バカじゃなくなってから走り出そうなんて思っているバカなのです。
こうやって、かっこ悪いまま長生きしちゃうんだろなぁ私。
専門化というか分業というか、実行は実行で得意な人がいる。
今、「革命家」という専門職の存在意義をものすごい感じた一瞬。

まぁ、バカはバカなりに、一生懸命考えております。
なんかものすごいポジティブだなぁ。
バカはせめて明るくなくちゃね。




佐野さんの絵がまた、すごく笑えて、かわいい。
いや、はじめに書いた“かわいくない”っていうのはぱっと見の話で、物語とあわせて読んでいくとほんとバカで悲しくって愛しくて、かわいいのです。

言葉ではやっぱり足りない。
是非実物でご覧になることをおすすめします。

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スペードの女王・ベールキン物語 / プーシキン作 神西清訳

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気がつけば7月。
この本読んでから半年以上経ってる・・・


“西欧文学を貪欲に摂取し、自家薬籠中のものとして、近代ロシア文学の基礎をうち立てたロシアの国民詩人プーシキン(1799―1837)。「駅長」など5篇の短篇から成り、ロシア散文小説の出発点となった『ベールキン物語』。簡潔明快な描写で、現実と幻想の交錯を完璧に構築してみせた『スペードの女王』。本書は名訳者と謳われた神西清の訳筆に成る、プーシキン傑作短篇集である。”


神西さんの訳なら間違いありません。
登場人物がカタカナでなかったら、もともと日本語の物語かと思うほどなめらか。


「スペードの女王」。
ドストエフスキーの賛辞に誇張はありませんでした。
典型的に感じるのはきっと完成度の高さゆえ。

感情の不足した、金銭的な豊かさだけを求める男、ゲルマン。
あるとき、老婦人が知るという賭けトランプの“秘伝”の話を聞いて以来、なんとしてもそれを聞き出し、大儲けしたいと願う。
エスカレートした皮算用で彼はその他の一切を軽んじる。いや、もともとないのかもしれない、命への敬意も愛情も。

人間は本当に面白い。
欲の強い人間は一層。
このゲルマンなんてほとんど喜劇。

「昔話」のようだと感じる理由は何だろう?
語り継がれ何度も推敲されたような、着地点まで計算された、放物線を描くような美しい展開でしょうか。
美しさは説明したら台無し、と誰か言っていたな。
通して読まなければ絶対に感じられない美しさ。



5篇から成る「ベールキン物語」の一篇、「駅長」。
ドストエフスキーは処女作「貧しき人びと」の中で、主人公マカール・ジェーヴシギンをしてこう言わしめています。

“自分の生活をそっくりまるで掌を指すように書いた本”、
“まるで自分が書いたような気がするんです”
“これは作りごとじゃない!
 読んでごらんなさい、まったく自然そのままです!
 生きています!”



私も何度自分のような人間を見つけて喜んだことだろう。
ドストエフスキーの中に、チェーホフの中に、ヴァレリーやサリンジャーや佐野洋子さんや・・・数えたらきりがなくて、いかに人が、自分も含めた多くの人が、“自分のことをわかってくれている”という感覚、「共感」を持ちたがっているかが伺える。

わからないものを怖いと感じるのは自己防衛の本能。
勇気を出さなければ何も得られないけれど、わからないうちはやっぱり怖い。
だからこそ、わかりあう、という状態は安心をもたらす。

私も、同じ時代のロシアに生きていたらもっとプーシキンを愛しただろうな。
そう思ったら、同じ時代の日本人の書いた物語を読みたくなりました。


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2011年07月09日

サロメ / ワイルド作 福田恒存訳

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オスカー・ワイルドといえば「幸せな王子」。
清川あさみさんの美しいテキスタイルに惹かれて絵本を購入し、幼少期の自分にはまったく理解できていなかったことを知りあらためて興味を持ち、しばらくして茂木さんの連続ツイートでこの「サロメ」や「獄中記」を薦められていたところ、丁度ブックオフでこちらの岩波文庫版を発見したのでした。
「獄中記」も是非読みたい。文庫版新訳で出ないかな。

天国から地獄への烈しい人生。
茂木さんのツイートで垣間見たその一端を、もっと知りたい。

またこの「サロメ」は、アイスダンスを舞台にした漫画「キス&ネバークライ」の中で主人公ペアが踊っていた曲。
その妖しく美しい描写を思い出しながら読んだのでビアズレーの挿絵よりも小川彌生先生の絵のイメージが頭に残っています。


“妖しい美しさで王エロドの心を奪ってはなさない王女サロメ.月光のもとでの宴の席上,7つのヴェイルの踊りとひきかえに,預言者ヨカナーンの生首を所望する.幻想の怪奇と文章の豊麗さで知られる世紀末文学の傑作.R.シュトラウスのオペラ「サロメ」の原典にもなった.幻想的な美しさで話題を呼んだビアズレーの挿画をすべて収録.”


自分の思い通りにならない苦しみ、「恋」をはじめて知ったサロメ。
命という失ったら取り返しのつかないものを奪うまで満たされない心。
バカで、滑稽で、かわいそう。
こんな風に育ってしまって。
悲しい。でも、すごく人間的。
感情的で、理屈じゃない。筋の通った感情、血の通った感情だ。悪魔ではない。
こんなりゆうでひとをころしておいて?うん、それでも。

情熱は美しい。それは結果に左右されない。どんなものでも美しい。
論理は人を納得させはするが、心を動かされはしない。
論理的なものが気持ち良いのは、不確かなものに溢れた世界は疲れるから。
秩序がないと思考が整理しづらいし、記憶もしにくい。
その点、本はいい。
整理された情報だから気持ちがいい。

だけど彼女は、サロメはそうじゃない。
この本はそうじゃなかった。
ワイルドの天才はそこにある。
心を引っ掻かれる原因はそこにある。


神話のような物語、いつか舞台でも観てみたいです。



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2011年07月03日

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 / 坂口安吾

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恥ずかしながら以前「桜の木の満開の下・白痴 他十二篇」を読んだとき、幼稚な私は安吾さんを嫌いになっていました。
理由は簡単、彼の女性描写がとても不快だったから。
バカにしていると思った。バカにされている気がした。
自分が認めたくない自分の一面を見せ付けられた気分になった。
このぎょろりとした目で自分が見つめられた気がして、そう、怖かった。
やめて、そんな目で見ないで・・・いやいや、もう読まなければ良い!

・・・と思っていたのですが、そのままではやっぱり気持ち悪い。
もう1冊読んでみてから改めて考えよう。
そう思えたきっかけが下記のあらすじでした。


“1946(昭和21)年4月に発表された「堕落論」によって、坂口安吾(1906‐1955)は一躍時代の寵児となった。作家として生き抜く覚悟を決めた日から、安吾は内なる〈自己〉との壮絶な戦いに明け暮れた。他者などではない。この〈自己〉こそが一切の基準だ。安吾の視線は、物事の本質にグサリと突き刺さる。”


“内なる自己との壮絶な戦いに明け暮れ”るような尊敬すべき人を、なぜ自分は嫌いなんだろう?
勿体無い、きっとあとで自分が恥ずかしくなるに違いない。

読み終えた今としては、そんな理由で読まなかったら本当に勿体無かった、心底読んで良かったと思いました。

まず安吾さん、かなりのポオファン。
ポオの短篇集と去年一緒に読んでさらに面白かった。
「風博士」や「アンゴウ」はかなり影響を受けているとか。


「FARCEに就て」。

“一体、人々は、「空想」という文字を、「現実」に対立させて考えるのが間違いの元である。
 私達人間は、人生五十年として、そのうちの五年分くらいは空想に費やしているものだ。
 人間自身の存在が「現実」であるならば、現に其の人間によって生み出される空想が、
 単に、形が無いからと言って、なんで「現実」でないことがある。
 実物を摑まなければ承知出来ないと言うのか。
 摑むことが出来ないから空想が空想として、これほども現実的であるというのだ。
 大体人間というものは、空想と実際との食い違いの中に気息奄々として(拙者なぞは白熱的に熱狂して―)暮らすところの儚ない生物にすぎないものだ。
 この大いなる矛盾のおかげで、この箆棒な儚なさのおかげで、兎も角も豚でなく、蟻でなく、幸いにして人である、と言うようなものである、人間というものは。”

これは以前ポオの黄金虫・アッシャー家の崩壊 他九篇のときも引用したけれど、最近読んだカントの「純粋理性批判」上巻を読んでいてまた思い出した箇所。

カントは、人間の考えるものを「可想的実在」「現象的実在」と分けて言う。
前者は「考えることができる(可想)が実在しないもの」、
後者は「実際に覚知できるもの(現実にあるもの)」。
人の頭の中にしかない前者にも“実在”という名を与えている。
人間の理性を突き詰めて考え尽くした歴史的天才もそう呼ぶ。
両方とも実在なのだ、確かに。
茂木先生で言うところの「仮想」がこの「可想的実在」。
目に見えないものも確かに存在している、「現実」の反対、「非現実」などでは決してない。
そんなあたりまえのことを私達は、改めて確認していないとわからなくなってしまう。
可笑しいね、そして面白い。なぜだろう。
放っておくとエントロピーは増大する一方だ。もちろん、思考も。
肉体に於いてはエントロピーの増大は老化、最大になると、死。
頭の中だってそう、食事をするように、いつも「秩序」を摂取しなければならない。
「消化」のはたらきは、思考に於いても必要。
本や体験が「食物」なら思考は「消化」。どちらもないと維持できない。

“自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ”
茨木のり子さんのことば、本当そう思います。


「ドストエフスキーとバルザック」。

“私は、小説に於て、説明というものを好まない。
 行動は常に厳然たる事実であって、行動から行動への連鎖の中に
 人物の躍如たる面目があるのだと思っている。
 人間の心には無限の可能が隠されている。
 人間は常に無限の数の中から一の行動を起してゆくのであって、
 之を説明することは、何等かの点に於て必ず誤魔化しを必要とする。
 決して説明しきれるものとは思えない。”

勿論、勿論。
自分自身の行動でさえ説明しきれないことも多い。
また同じ行動をとっているように見えるからといって同じ意図、同じ心情でないのも勿論。
だから私は、内面の“説明”が詳細にある小説もとても好きです。
とくに翻訳小説は文化背景が違うこともあって「その思考なのにその行動!?」と感じることも多い。
クンデラとか著者が説明しまくってるところが魅力だと思うほど。


“ドストエフスキーの人物は時々ひどく抽象的になる。 
 哲学の上で歩き出す。”

そうだろうか。私は抽象的だと感じたことはなかった。
人物が“哲学の上で歩き出”してこそ具体的に感じられるのではないだろうか。

あるいは安吾氏が圧倒的に“人間通”すぎて“行動だけ描けば十分”、説明は余計だ、と思われるのかもしれない。


「意慾的創作文章の形式と方法」。

“芸術家とは自己の幻影を他人に強うることのできる人である。”

うん、これは文章でも音楽でも絵でもそう。映画でも。
そして、強いられているなど思いもしないうちに感化される、反応が起きる。

少し違うのは、音や絵や映像はある程度他人を受動的にして受け取らせることができるけれど、文章はそうもいかないということ。「能動」の必要度が高い。拘束時間も長い。
若者の活字離れが進むのも仕方ないのかもしれない。もっとラクで楽しいことがたくさんあるから。
だから、入り口をもっと簡単に楽しくする方法として、やっぱり「読書会」やりたい!
自分の意見を言う、人の意見を聞く、違う意見の人と話す、をもっと日常的に。
その方法を考えて、実行したい。


「余はベンメイす」。
“・・・だが、諸君は各々の私事に於て、正しいこと、
 自ら省みて正しいと信ずることを行っていられるか。
 諸君は信じておるかも知れぬ。
 然し、それが、自ら省みること不足のせいであり、
 自ら知ること足らざるせいであることを、そうではないと断言し得るや。”

・・・とても断言なぞできません。
まだまだ不足。
ダメだってわかってはじめて変えられる、だからダメでもしょうがない。
わかったらちゃんと変えられるような柔軟さだけは持っていたい。


“小説は劇薬ですよ。魂の病人のサイミン薬です。
 病気を根治する由もないが、一時的に、なぐさめてくれるオモチャです。
 健康な豚がのむと、毒薬になる。”

哲学も似ているかもしれない。
時間しか解決の望みはないから、睡眠薬が必要。
そう、時間ですら解決できないかもしれないけれど。
必要ない人には本当に必要無い薬。
無理して読んで本質も意義もわからず嫌いになる、毒にあたるよりは読まないほうが良い。
酒でも飲んでるほうがよっぽど良い。

それにしてもどうやら安吾さんは哲学が嫌いなようです。
哲学や宗教を必要とする人に対する攻撃、気持ちはわからなくもない。
が、酒を必要とするのと何が違うだろう?
それがないと生きて行けない弱さの、何が悪いだろう。
それぞれが自分の友達、哲学や信仰や酒を愛しているから他を攻撃するのだろうけど、
どれだっていい、たいして変わらない。
みんな、自分の“人生の友”が一番だと思う、それだけのこと。

重要なのは求める理由。
完全に“思考停止”になるくらいなら全部無いほうが良い。
他人の言うこと=本や教義を丸呑みして、自分で何も考えない人形になる、そういう人はたくさんいる。
現実逃避のために酒に飲まれて脳を麻痺させる人も。
逃げたくなるのは仕方ない、一時的になら誰でもあるのが当然。
でも帰って来られずに心が、頭が死んでしまったらそんな悲しいことはない。
本人が気付いていなくとも。自分を幸せだと思っていても。
思考停止、感受性を閉じてしまった状態で、自分を幸せだと思っている人を見るのは、私は悲しい。
嫌われても良いからアプローチしたくなる、聞いてみたくなる。「本当に?」と。

仕事ばかりしていると自分自身もそうなってくる。
がむしゃらに働かなければならないときがあっても、完全に忘れてはいけないこと。
感受性を閉じてはいけない。
私はまだどうも不器用で、バランスがうまくとれない。
いずれかを0にしては、だめですね。
休日には元に戻れるけれど。


まだまだ「教祖の文学―小林秀雄論」など魅力的なエッセイがたくさんあるのでまた追記します。





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2011年06月23日

広告 2011 July Vol.386 -あなたは何をシェアできる?

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博報堂という広告代理店の代表格である会社が発行するこの「広告」という雑誌は、これまでのテレビCMを代表とするマス型の“広告”から一歩引いて、以前よりも「読む」「考える」「提案する」雑誌として、去年2010年に生まれ変わったという印象。

切り口が面白いので最近良く買う雑誌のひとつです。


“シェア”はまさに今のキーワード。
仕事上の必要と個人的な興味をともに充たしてくれるテーマで即買いでした。


巻頭の「脱成長期とシェア社会」、広井良典さん。

“資本主義・社会主義・エコロジーの融合”、とは魅力的!

“脱成長期=定常期の社会”。
現在は第3回目の定常期なのではないか、と。
「定常期には人間の精神革命ともいえることが起きている。」
1回目は約5万年前、狩猟採集の限界にぶつかった時期で、この時期から一気に遺跡から装飾品・絵画・埋葬品などが現れている。
2回目は約1万年前、農耕による成長、その後の定常期に各種の宗教や思想が同時多発的に生れている。
そして今が工業化―市場経済化の限界、定常期の入り口なのではないか、と。

“自然からの搾取の度合いを強めることで発展するのではなくて、人と人とのつながり、相互作用のあり方が変わる、つまりコミュニティやコミュニケーションが進化すると言い換えてもいいかもしれません。
 そういう新しい豊かさを持つ人間関係の中で、自然を開拓するのではなく自然を享受する。
 それが定常期の特徴の本質ではないか。
 量的な拡大から、内的、質的な拡大へ・・・。”


この広井先生の考え方、すごく良い、面白い!

まさに今、テクノロジーの力によって新しいコミュニケーションの方法がたくさん出てきています。
もっと、社会にプラスになる使われ方がまだまだあるはず。

私がやりたい、あったらいいなという機能(ツール)は、活発な議論を可能にするもの。
失敗して間違えてこそ人は成長できる。もっともっと批判されたい。
転がして転がしてカドを丸くしたい。
もちろん誹謗や中傷ではなく、真剣に論じ合える人間関係を、たくさんの人と。
実名を名乗って、責任を持って発言し、ブレインストーミングができるような。

ちょうど読んでいた和辻哲郎さんの随筆集の中に、夏目漱石のサロンの話が出ていて、非常に羨ましく読んだばかり。
茂木健一郎さんもツイッター上で私塾の構想などをお話されていました。是非参加したい!
そしてオンラインでも、工夫次第でそういう場をつくることはできるはず。


p26、岡田斗司夫さんと濱野智史さんの対談。

岡田さんの「評価経済社会」読みたくなりました。

情報がすぐに廻る、だからウソがつけない。
情報を隠すことで儲けてもすぐにバレちゃう。
“だから僕は評価経済社会を「人格者文明」とも言っています。”

自分の理想と一致した、表も裏もなく正直でありのまま、そのありのままを磨いて良くしたいという欲求と。
対談中では「人格の統一」と書かれていてまさに、その統一された人格を叩き直して良くすること。

“恥ずかしい部分を明かせない人には人々がついて来なくなる。”
これは今までもきっとそう。
違うのは「正直者がバカをみる」、「ズルい奴が得をする」社会ではなくなっていく、ということ。


社会は進化している、ということが感じられてとても有難く、嬉しい。
そしてやっぱり“今”の文脈でカントを読みたい。自分で読みたい。

カントを自分で読んでから、と思って中断していた和辻哲郎さんの本を再開してみたら、以前と比較して驚くほどすらすらと意味が頭に入ってきた。
自分もまだ、確実に成長できるという実感、貴重な体験でした。


読み進めて感じたこと。

上手に“シェア”していくためには、それぞれが自立した自己であることが必要であるということ。
自分の足で立っていてこそ、人と手をつないで歩くことができる。
自分の力で立とうとしないと、相手から搾取する一方になる。
誰でも自分の足がある、何かしらできること、得意なことがある。
“助け合い”の方法を誤解しないように、いつも気をつけていること。
持続可能の必要条件と思います。


追記でした。


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2011年06月13日

生命と偶有性 / 茂木 健一郎

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今年ほど半年が短く感じられたことはない。
年を取った、というだけではないような。
それとも去年まで一年を長いと感じていたこと自体が、私に何か不足していた証拠かもしれません。

この本は昨年末、茂木さんから毎朝頂くお楽しみ、連続ツイートを拝見しながら読んだ1冊。
たくさん著書のある方なので全部は読めませんが、マイルストン的な作品だけは欠かさないように拝読しております。

こちらは間違いなくその1冊だと感じる、下記の作品紹介。


“「世界はわからない」から美しい。クオリアから仮想、そして偶有性へ―。
『脳と仮想』(小林秀雄賞受賞作)から六年。脳科学者が"本気の思索"で掴んだ、新しい生命哲学。
「偶有性」とは何か。
 この世のすべてが、決して確かなものではないということ。
 自分が置かれている状況に、絶対的な根拠はないということ。
 必然と偶然が混ざり合う状態、それが偶有性の領域である。生命はこれまで、偶有性に適応することで進化してきた。その過程を明らかにすることは、「意識の謎」を解く鍵となる。私たちは偶有性から逃れることはできない。その正体を見極め、生命と偶有性を結びつけることで、私たちはきっと再生できる。
 人類と偶有性の格闘の歴史をたどり、「何が起こるかわからない」世界と対峙する覚悟を示す、新しい生命哲学。”


若輩ながら、これまで生きてきた中で劇的な社会の変化は少なくとも2回はある。
1度目は9.11。2度目は、今回の3.11大地震、津波。
サリン事件や阪神大震災はまだ幼かったこともあり、当時自ら考えた記憶に乏しい。
そしてやはり、アメリカで起きた9.11はそれでもまだ遠かった。
今回ほど当事者であることを意識したことはありませんでした。

明日何が起きるか本当にわからない。
今年の3月11日、心底そう実感し、この本をヒントに自分のこれからを考えたい。
記憶力に恵まれない私は、こうして書いて何度も読み返し推敲することで自分の引き出しにようやく収めることができる。
欲を言えばこの記事を偶然読んで頂いた方に、この本への興味が少しでも湧いたら嬉しいです。


茂木さんから教わった「偶有性」という名前。
概念自体はおそらく誰もが知っているし、実感もある。
けれど名前がついていると、思考を一歩先へ進める助けになる。
そこにはもちろん弊害もあるのだけれど、“名前”というものの利便性に改めて感心しました。

茂木さんは名前遣いが本当に上手い。
もともとあった言葉なのでしょうが、「クオリア」「偶有性」といえばもうイコール茂木さん。
たとえばジェイムズのプラグマティズムのように。

使う言葉には人間性が滲み出る。
そのことを強く実感したのが次の引用部分でした。


p37、
“たとえ、どんな立場に置かれたとしても、その人生の偶有性を楽しんでみせる。・・・ 偶有性に対する強健な態度とは、すなわち「覚悟」のことである。どんな人生を歩んだとしても、その「偶有性」を引き受け、味わう覚悟さえあれば、 生きるということを裏切ることにはならないはずだ。
 「他の私でもあり得たのだ」という思いに胸をざわつかせながら、それでもなお、「今、ここ」の私の限定された状況を受け入れる。
 生きるということをぎりぎりのところで担保する方法は、それ以外にない。”


「覚悟」。覚悟とおっしゃるか。
私はそれに「諦め」という名前をつけていた。
茂木さんと自分の自己評価の差かもしれないが、「覚悟」といったほうが随分いい。
自分の来た道を後悔なんてしていないのに「諦め」というのはなんだか無意味にネガティブだ。
謙遜だとしたら甘ったれの自己防衛のようではずかしい。
茂木さんの言葉や著書がなぜ人気があるのか、理由の一端をここに見た気がしました。


p43、
“何も生まれない。何も死ぬことはない。万物はただ変化する。
 人類の歴史において、思い詰め、窮地に陥った思想家が確かにたどり着く
 「木もれ日の差す吹きだまり」のような場所。
 ヘラクレイトスは「万物は流転する」と述べた。
 フリードリッヒ・ニーチェがスイスのシルス・マリアで構想した「永劫回帰」も、
 変化し続け常在する宇宙との和解の試みであった。
 死を受け入れると同時に生をその全体において抱きしめる。
 そこには、もはや個別化の原理は存在しない。
 変化は避けることができない。
 個体にとって、死は必ず訪れる。しかし・・・
 本当の「あがき」は、達観したその瞬間から始まる。”

思想家でなくとも、自分のような普通の人間でも、おそらく誰もがぶつかる壁。
教わった答えのようなものと対峙し続け、自分自身の思考の結晶が生成されてゆく。
私はその途上にいる。たぶんまだまだこれからも。
変化しつづけたい。
必ず死ぬ私だからこそ。


p56
“生きるとは、畢竟、古い自分をうまく死なせ続けることではなかったか。”

そう思います。
常にアップデートしたい。
そのために批評をたくさん浴びたい、間違いを指摘されたい。
指摘を受け止め、判断し、受け入れられる人になりたい。
まだ修行が足りなくて反論してしまうこともたくさんあるけれど、それでも批判し続けてくれる人は本当にありがたいです。
二十数年しか生きていないのだから、完成なんてされていないに決まってるもの。


p8
“・・・「偶有性」の所在は、私たちを不安にさせる。
 できれば、将来がどうなるか、確かな保証が欲しい。
 なぜ、自分がこのようなかたちでこの世に存在するに至ったのか、その信じるに足る説明が欲しい。
 そんな願いは所詮は虚しい。
 なぜならば、私たちの生命そのものが、「偶有性」を本旨としているからだ。
 「偶有性」から逃げようとすることは、すなわち、「生命」そのものを否定することに等しいのである。”

幼い自分は願っていた。偶有性から逃げようとしていたと思う。
敷かれたレールに沿っていることで安心していた、というよりはそれ以外何も考えていなかった。
あるとき、思いっきり脱線した。せざるを得なかった。
その後、その脱線に対して後悔や劣等感を抱いていた。他に選択肢の無かった自分を受け容れることができなかった。私は弱かった。
ゆっくりと、本当に少しずつ受け容れることができるようになる過程で、茂木さんと出会い、小林秀雄さんと出会った。
どうしたって、悲しいほど人間同士は断絶され、孤独。
だから、受け容れてその上で努力するしかないんだよ、と教えてくれたのは他でもない茂木さんでした。

たくさん転んで古傷がたくさんあるのも悪くないと、今では思うことができる。
本当に感謝しています。


第七章、「かくも長い孤独」。


“なぜ電子はすべて同じ質量なのか”。
ジョン・ウィーラーによれば、“それらは実はすべて「一つの電子」だ”と。
未来から過去へ、過去から未来へ、時間を越えて電子が運動する。
なんて面白い仮説!
少し本題からは外れますが、ものすごく印象深いお話でした。


“相対性理論を創ったアルベルト・アインシュタインは、
 ある人の価値は、その人が自分自身からどれくらい解放されているかということで決まると言った。”

孔子の境地。
mr.childrenの最近の歌を聴くといつも、“自分”から解放されている人にしか産み出せない作品の美しさに感嘆し、憧れ、納得させられる。


“それにしても、私たち一人ひとりの意識の孤立ぶりは、絶望的なものである。”

以前読んだ「脳と仮想」の中で最も印象深かった部分が再び。
事実を受容し覚悟を決める、背筋のしゃんとした人間だから言える。
茂木さんはやっぱり私の「先生」です。



第八章、「遊びの至上」、“織田信長と偶有性”。

“秩序は、生の安全を保障するためにはある程度必要なことである。
 秩序が不用意に解ければ、生自体が危うくなる。
 生きるということは、常にエントロピー(乱雑さ)が増大し続けるという熱力学の第二法則に抗するということ。
 したがって、ある程度の秩序維持機能は、生命や組織一般において、どうしても不可欠なこととして立ち現れる。”

シュレディンガー「生命とは何か」が思い出される。
ここのところ詳しく書いてあって非常にエキサイティングな本でした。おすすめです!


“しかし、秩序の中に留まっていては、創造はできない。
 創造は、むしろ一度形成された秩序を上手に解きほぐして、それを「再結晶」させることの中にある。
 その際の行為や感性の文法が、「遊び」という契機のなかに見いだされる。”

それにしても茂木先生は超理系な頭を持ちつつも文学的素養を併せ持つな稀有な人。
真剣に遊べる人が持つ創造性、ジョブズ氏のような!


p187“偶有性なき硬直”
“自らの偶有性の核心と向き合って、創造性を全うしたいというのは、
 私たち一人ひとりにとっての本能、切ない願いのようなものである。
 一方で、楽をしたいというのも人間の精神の一側面。
 さまざまな社会制度、組織によって、生の偶有性のむき出しの作用から逃れることに慣らされてしまった人たちは、何のかんのと言い訳をつけて偶有性そのものと向き合うことを避け続ける。”

レールに乗った人生を望む人、特に子供にそうあって欲しいという親、たくさんいることは知ってる。

偶有性はきっと「怖い」。
だけど避けられるものじゃない、誰一人。
そう、つまり覚悟ができない。

だけど、はずれものを受け容れない社会のほうがずっと怖い。
だから余計はずれるのが怖くなる悪循環。
今の教育に顕著に現れている。
じゃぁ、どうしよう?

p236
“私たちは、まずは行動しなければならない。
 そうして、その行動の結果を引き受けなくてはならない。
 向こう見ずにならなくてはならない。
 そして、失敗したり、転んだり、怪我をしたり、傷付いたり、傷つけたり、ぶつかったり、すれ違ったり、落胆したり、望外の幸せに浸ったり、時には絶望しなければならない。”


そう、まず動くこと。
結果に責任を持ちながら。


p240
“偶有性は、私たちの生の安定性を常に裏切る。
 だからこそ、私たちは、必死になって規則性を見いだし、安定性を求めようとする。
 「学歴」という人生の「保証」を求めようとし、「正社員」という生活の「糧」をつかもうとし、
 また、相手が自分を愛してくれているという確かな「証拠」を見出そうとする。
 しかし、残念なことに、偶有性は必ず私たちを追いかけてくる。
 問題は、構造的なものである。
 私たちが、明示的に気付いている目の前のランダム性以外にも、生には多くの不確実性が潜んでいるからだ。”


そう、そして時にあまりに残酷にそれは訪れる。
覚悟して、できたつもりになって、実際の残酷さを受け容れられず途方に暮れる。
そしてまた覚悟する、また絶望する。その繰り返し。


-p244
“愛し、憎め。
 夢を抱き、絶望せよ。”


そのループの上に立っていることこそが生きているということ。
難しいよ、苦しいよ、もうやめたいよ、それでもまた愛するし憎む、夢を抱くし、絶望する。

なんだかほんとに滑稽で、楽しいな。
楽しもう、無条件に、仮定なしに。
「○○○があっても?」「○○○をなくしても?」「○○○でも?」
うん、それでも。
それでも生を楽しむことを諦めたくない、と言えるようになりたい。



明日はどんな一日になるのでしょう。
どんなだとしても、がんばろうじゃないの。

それではここらで、おやすみなさい。


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2011年06月08日

TRANSIT 12号 特集:永久保存版!美しきインドに呼ばれて

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いちばん見応えのある旅行雑誌といえばこちら!
NEUTRALからTRANSITになってからは地域単位で特集されていますが、NEUTRAL式の企画、好きだったなぁ。
「月」「イスラム」「水」「女性」などなど。

今回の特集はインド。


いつになくぼかしの強い写真たち。
記憶の中のような。
それでも強い色彩。
衣裳の彩度は太陽の強さに比例して高まるのか。

平均して日本人はスモーキーな色を着ていることが多いような。
湿度のせいかもしれない。


52ページの、「カルベリア・ダンス」を踊る女性の煌びやかな衣裳の印象が凄い。
黒い肌に似合ってすごく美しい。


p66、「インドには、呼ばれる人とそうでない人がいる」、とは三島由紀夫の言だとか。
横尾忠則さん、ほんと真っ先に呼ばれそう。


p95の下、「おとぼけ4人組」がなんだかかわいくてひげもじゃで、
昔アニメで見た、おじさん顔の妖精(ドワーフだっけ?)を思い出しました。


写真も勿論ですが「読む」物としても良いのがこのTRANSITの良いところ。
これ、たぶん紹介するたびに言ってます。


p90〜の「わたしの神はどこですか?」のトビラの言葉。

“インドで修行するバックパッカーたちの肖像。
 永遠に本当の故郷にはなれない大地で、何を見て何を感じているのか?”


そうなのか。そうかもしれない。
故郷って自分で決められないんだなぁ。
そうでしょうか。

佐野洋子さんは「故郷は人だ」と言った。
土地が変わっても、なつかしい人がいるところが故郷。
その考え方好きです。


12億人の故郷。
仏教のふるさとでもあるインド。
そしてヒンズー教のインド。

シヴァ、ヴィシュヌ、ブラフマー等のヒンズー(ヒンドゥー)の神様やヒンズー語まで、ここまで1冊で総合的に読めるところが良い。
辛酸なめ子さんの「漫画で読む☆インド神話」面白かった!


ゆくゆくは中国の人口を超える見込みだそうです。
中国は今がピークで、インドはこれからだとか。
ITにもめちゃくちゃ強いし、今後ますます面白くなりそう!
教育面で、日本は見習うところがたくさんあると思います。



忙しい毎日でも擬似旅行体験をさせてくれるこの雑誌。
タイトル通り、毎号永久保存版です!


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2011年06月03日

SIGHTSEEING / 瀧本 幹也

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人気写真家、瀧本幹也さんの写真集。

タイトルは「観光」、被写体は「観光客」。
観光地で観光地をメインに撮らず、そこへ観光に来ている人たちの笑顔や背中が収められています。


思い出したのは「典型的日本人観光客」の話。
海外で、ハードタイプのスーツケースを持ち、首からカメラを下げているから、他のアジア人と違うとすぐにわかるとか。
今はどうか知りませんが、「日本人=金持ち」ということでカモになりやすいと、父親が「カメラは首から下げるな」とアドバイス(?)してくれたのでした。

そんな言い方をされると、まるで日本人だけが浮かれたおのぼりさん様なのかと思ってしまうのですが、
いやいや、この写真集を見たら「何人でもみんな一緒じゃーん」と笑ってしまいました。


そう、みんながみんな、なんだか滑稽なのでした。
いいじゃない。滑稽万歳!
でも、なんでだろう?

どうして人は観光へ行くのだろう。
何をしに?
知識欲ではなさそうだ。
写真に写る笑顔は、もっと無邪気で単純に見える。

「リフレッシュ」と良く言うけれど、改めて考えると、なぜだろう?
経験的に、身体が知っていることが言葉にならない。


単に、「非日常」を感じれば良いのでしょうか?

「見たことがないもの」は覚え易い。
刺激が強いから。
旧くなった回路から、新しい回路へ思考が変われば、なんとなく良さそうだ。


それにしても移動が簡単になったもんだ。
瀧本さんの移動距離がすごい。

じゃぁ、それだけたくさんの刺激を簡単に得られるようになって人は良くなった?
同じところぐるぐるしてないで、パッと環境変えてリフレッシュするほうが健康的?

そうかもしれない。
それが必要なときももちろんたくさんある。
だけど、ずっと無菌室にいると外に出たとたんアレルギーになり易いのと同じように、たまにはじっくり不健康になることも必要だと思う、死なない程度に。


移動が簡単になって、歴史的遺産も大自然も地球の裏側もインスタントになった。
体験を消費するのがどんどん簡単になってゆく。
そのうち宇宙旅行だって簡単に行けるんだろう。
資本主義経済の当然の流れ。
次へ次へ、新しい刺激を!

本当に人間はそれを欲してるのかな?
まぁ「そういう人もそうじゃない人もいる、そういう時もそうじゃない時もある」
が妥当なんだろう。
だけど人は流されやすい。
「次へ次へ」の圧力が今は強すぎるように思う。

私はもちょっとネチネチしていたい。
同じところにじっとしてることが必要なときもある。

体育座りから急に走り出せないように、
車も急には止まれない。
みんなそんなに器用じゃないよ。人間だから。
たまに急にじっくり考えようとしたって、そりゃ難しいに決まってる。


写真の中の人たちは、いろんな頭の中身を持っている。当然全部違う。
でも「観光地」がそうさせるのか、似たような顔、似たような行動。


佐野洋子さんが言っていた、
「ああ、世界は平らになる」という言葉が思い出された。

でも、平らになんてなりきるもんじゃない。
均質化の波で洗われたあとに残るものこそ本物かもしれん、わかりません。

カントの理想に近づいてるのかも、そうだといい。





もっと、いろいろ考えたくなる写真達を、是非実物で。


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+81 VOL.52 / SUMMER 2011 Image Making Issue

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人間は視覚から全体の8割の情報を得ている。
と、どこで読んだのか忘れましたが「そんなに!?」と大いに驚いたことは忘れません。

活字(=直線)ばかり読んでいるからか、刺激的なグラフィック(=面)に飢えることもしばしば。
読書と違って、タイムラインが無い、またはタイムラインの自由度が高い、という要素も重要かもしれません。

そんな欲求に期待の何倍も応えてくれる+81!!
世界一好きだ!!!

いつもいつも同じことを書いていますが、隅々までタイポグラフィが最高!!!
目次やページ番号の遊んでいるようで巧妙なバランスに鳥肌。


今号は「Image Making Issue」。
良質の視覚刺激が満載です。


巻頭の「M/M」。
写真に墨塗り・鏡文字のアルファベット。
これが香水のパッケージ!
ジャケ買いしますこれ。


年内にアートミューズ:ビョークとのコラボレーションを予定!



「Stephane Massa-Bidal」。

こんな面白いタイポグラフィ!!!
面白すぎて美しすぎて説明できません。
是非こちらから6/2-3頃を観てみて下さい。

天才的に素敵!
家に大きなポスターを貼って、毎日眺めたい。


「Leif Podhajsky」。

シンメトリーの魔術。
あとでインタビューをじっくり読もう。


「Bela Borsodi」。

作品というより、
p46-47のページ構成が・・・!!

文字とベタ塗りだけで、ここまで面白くかっこ良く美しくできる!!
ということを教えてくれます。


・・・言葉の限界。

言葉だけでなんとか云えるのならイメージにしてないもの。
是非雑誌で見て下さい!


+81で気になった方のイメージをtumblrで引用しています。
6月始めのアーカイブを、興味のある方は是非。


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2011年05月30日

神も仏もありませぬ / 佐野洋子

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前回の投稿から随分時間が経ってしまいました。

できること、すべきこと、したいこと、
繁忙期の仕事。
疑うこと、信じること、考えること、考えないこと。
頭の中がいつもいっぱいでした。


3月11日以降、日本が変ったように、自分自身も大きく変ったように思います。

まず情報収集の仕方。
Twitterは、発信でも受信でも、責任を持って考えることが必要になる。
肩書きや権威よりも、“人間性”が最も力を発揮する(もちろん受け手にもよるけど)。

もともとテレビはほとんど見なかったけれど、今は壊れたままアンテナにも繋いでない。
お笑い番組は大好きだけど、エンタメ以外は“ブロードキャスト”はもういい。
「能動力」の必要性が高まった、という意味で世間の情報(コンテンツ)ビジネスも大転換期。
訪れつつあった電子書籍の波もいよいよ?

だけど私は、電気がないと読めない“本”はあんまり欲しくないなぁ。
いざというとき、大事な本が全部データならすぐに全冊持ち出せるけど、電気がなけりゃ意味がない。
あたりまえだけど、一長一短。これから棲み分けが進むはず。


この3ヶ月の間もずっと本ばかり読んでいました。
それは相変わらずだけど、外国人ばかり読んでいたのが一転、気付くと国産の著作物ばかり。
石牟礼道子さん、和辻哲郎さんとともに読んでいたのがこちら、佐野洋子さん。

あまりにも有名な絵本、「百万回生きた猫」を大人になって初めて読み返したのが昨年末。
そう、追悼ということで書店に大きくコーナーが設けられていたのでした。

たまたま手にとってみて、裏表紙に書いてあったこの文章。

“呆けてしまった母の姿に、分からないからこその呆然とした実存そのものの不安と恐怖を感じ、癌になった愛猫フネの、生き物の宿命である死をそのまま受け入れている目にひるみ、その静寂さの前に恥じる。生きるって何だろう。北軽井沢の春に、腹の底から踊り狂うように嬉しくなり、土に暮らす友と語りあう。いつ死んでもいい、でも今日でなくていい。”


“いつ死んでもいい、でも今日でなくていい。”

この響きがどこから来たものか、一体どんな方なのか。
とにかく読んでみようと思わされて購入。


私は、佐野さんみたいなおばちゃんになりたい。
女でも男でもなく(悪い意味でなく)、とっても人間らしい“おばちゃん”。
若輩の自分にはない人間の丸みと、一方で子供みたいな、というよりイノシシみたいなまっすぐさをあわせもつ佐野さんは、きっとやっぱり非凡なんだろう。


この本を読んだことで、数ヶ月滞っていた負の思考がすっきりと流れだした。
自由。猪みたいに走りたい。でもどこへ?
違う種類の悩みと思考に辿りついた。
これまでとは少し違う、少しだけ進んだような。


とってもステキな人。出会えてほんとに嬉しいです。


「声は腹から出せ」。

浪曲というものは全く初耳だったので是非聞いてみよう。
本を読んで声を出して笑ったのは久し振り。

“テレビは悪いなぁ、どんどん人心を荒廃させていく。
 誰も人の道など説かない。説く奴はうさんくさい。

 ・・・時代と共に滅んでいったものが戻って来ることは決してない。
 失ったものの代りに、私たちは豊かな物質生活を手に入れただけなのだろうか。”

いつもトレードオフだと思う、世の中そういうものだとなんとなく思う。根拠はない。
失った心もあれば得た心もきっとある。
孤独になっていくのは悪い一方じゃない、気付くこともたくさんあって、一緒にいられることの有難さを一層意識する、たとえばそんな風に。


「フツーに死ぬ」。

“私は毎日フネを見て、見るたびに、人間がガンになる動転ぶりと比べた。
 ほとんど一日中見ているから、一日中人間の死に方を考えた。
 考えるたびに粛然とした。私はこの小さな畜生に劣る。
 この小さな生き物の、生きものの宿命である死をそのまま受け入れている目にひるんだ。
 その静寂さの前に恥じた。私がフネだったら、わめいてうめいて、その苦痛をのろうに違いなかった。
 私はフネのように死にたいと思った。人間は月まで出かける事が出来ても、フネの様には死ねない。
 月まで出かけるからフネの様には死ねない。フネはフツーに死んだ。

 太古の昔、人はもしかしたらフネの様に、フネの様な目をして、フツーに死んだのかもしれない。
 「うちの猫死んだ」とアライさんに報告したら、「そうかね」とアライさんはフツーの声で云った。”

私の初めての家族だった猫の最期が近づいたときを思った。
今でも、家でなく病院で死なせてしまって済まなかったと思う。
私のわがままで、望みがあるうちは何かしたい、なんとかなるんじゃないか、って。
輸血に耐えられなくて死んでしまった。本当にかわいそうなことをした。
あの子は、もう受け容れて静かにしていたのに。
月まで出かけるから、医療が発達しているから、知恵の実を食べたから猫のように死ねない。
人間が持てないもの、たくさんあるな。
でもそれでいいんだ。

 
「そうならいいけど」。

“・・・別の友人は、徘徊する母親の腕と自分の腕とをひもでまきつけて、何年も看護をし、あびる様に酒を飲んでいた。
 そして母の通夜の晩、脳出血で自分も死んでしまった。
 その時も私は感想を持てなかった。どんな感想も言葉もその事実の前に無力だった。
 人は長生きしすぎたのだ。”

痴呆、介護のお話。誰にも他人事じゃない。
数年前亡くなった祖母を思う。
息子である父や叔父のことも忘れかけていたけれど、孫の私達が会いに行ったことはよく覚えていてくれたそうだ。
赤ん坊に還っていくよう、とは良く言われる表現。
「苦海浄土」の水俣病の患者さんの描写を連想する。
「人間に戻りたい」という言葉。死ぬより苦しいんじゃないか。想像しかできないが想像なんか及ばない苦しみ。
どっからどこまでが人間なのか。
悪魔みたいな奴でも人間なのに。
「人間」なんて、ただの言葉。その枠の中に何を入れるか、何を入れるべきか。

近頃私は、ドストエフスキー「悪霊」のキリーロフの真似事みたいな方向の思考へ行ってしまって、これじゃいけない気がしている。

“「でも、餓死する者も、女の子を辱しめたり、穢したりする者もあるだろうけれど、それでもすばらしいのですか?」
 「すばらしい。赤ん坊の頭をぐしゃふしゃに叩きつぶす者がいても、やっぱりすばらしい。叩きつぶさない者も、やっぱりすばらしい。すべてがすばらしい、すべてがです。・・・」”
(新潮文庫版下巻 キリーロフとスタヴローギンの会話 p452 江川卓訳)

カントに通じるこの思考。
「理性あるものは皆尊敬に値する」云々。
そこに至った理由を知りたくて著作を読んでいるけど、先は長い。

古屋実さんの「ヒメアノ〜ル」はあらためて凄い。
連続殺人犯の森田をああ描ける人、稀にみる天才漫画家と思う。

清水玲子さん「秘密」も凄い。
描きたいものがあって、それを描くための設定が素晴らしい。
死者の脳内に残る画像を見ることができる装置が発明された未来。
犯罪者、または被害者が見た世界を「事件解決のため」といって覗く、警察組織「第9」。
こんなに「人間」を問うストーリーを他に知らない。

カポーティなら「冷血」。
ドストエフスキーは言わずもがな。

ずっと人は問い続けている。
常に新たな思考を加え続けて、アップデートする必要がある。
そして答えが属人的だから、世代が代るたびにいつまでも続く。
一人の中でも変わる、人が違えばそれぞれ変る。
観念して正面から向き合うのが一番良い。
めんどくさい気持ちもわからなくもないけど、後回しにしてもいい事ないよ。
自分だって人に言えるほどのこと全くないんだけど、言いたくなっちゃう人はいっぱいいる。
このおせっかい根性、おばちゃんへの第一歩として前向きに捉えよう!?



「フツーじゃない?」。
“・・・そのうちに、ドキドキの中にワクワクという気分が混ざり込んで来た。
 とんでもない冒険にただ一人で挑んでいるヒロイックな気分が、恐怖とまぜこぜになって来た。
 おお、私は生きている。
 激しく生きているなあ、と恐怖は私に教えるのだ。”

ジッドみたいだ。こういう肝の据わった人大好き、尊敬。


「出来ます」。
“ビューティー・コロシアム」という番組がある。・・・
 皆整形後の自分に満足し、別人のように明るくはきはきして自信に満ちるのである。
 私はいつもながらショックを受ける。
 ブスのまま明るく人の目をギッと見ながら生きてきた私。
 「ブスはあっち見てろ」と云われても、「手前、自分の顔みてから云え!!」とどなり返していた私。
 手術後は皆あいまいな同じような顔になる。
 ああ、世界は平らになる。
 デコボコがあってこそこの世と思うのである。気に食わん。・・・”

うん、でも平らになってみてからしかわからないこともある。
失うのは悲しい、元に戻らない。
引き換えに得るものが無いことは無い・・・と思いたいだけかもしれない。

そして写真を見るかぎり、佐野さんはブスじゃありません。


“日本中死ぬまで現役、現役とマスゲームをやっている様な気がする。
 いきいき老後とか、はつらつ熟年とか印刷されているものを見ると私はむかつくんじゃ。
 こんな年になってさえ、何で競走ラインに参加せにゃならん。わしら疲れているのよ。
 いや疲れている老人と、疲れを知らぬ老人に分けられているのだろうか。

 疲れている人は堂々と疲れたい。・・・”

そういう佐野さんはとってもエネルギッシュだ。
若い頃はもっとそうだったんだろうな。


「金で買う」。
“友達が、寝る前に、「あんた、おみやげって土産っていって、こういうもんなんだねェ」と云った。
 本当に土産っていう字をしみじみ思い描いた。
 私達は、どこかにお土産をもってゆく時、金で買う。当たり前だと思っていた。
 「そーか」「そうだったんだァ」

 ・・・私がもらうもの、私が人にあげるものは全て、金で買うものである。
 そして金を得るために私は一生を費やして来た。・・・
 当たり前すぎて愕然とする。よく生きてこられたよなあ。
 山の尾根を片足でとびはねて生きてきたみたいでぞっとする。

 いくらこの先長生きして、ここで暮らしても、私は土地の人ではないし土地の人にはなれない。
 所詮都会もんの気まぐれな生き方だと肝に銘じている。”


とても共感した一文。
とくに危機的な状況になったときに感じるもの。
均質化の強制力は貨幣経済から来た。

軽井沢に住み、農業で生きている人との交わりを羨ましく拝読しました。
豊かさのモノサシが世間的に1つになったからって、自分もそうならなくても良い。
モノサシが1つなことで劣等感に焦る人の放つ戯言など無視して良い。
サラリーマン家庭に生まれ、自分も会社員だけど、そこに強制を感じる必要はない。
ただ、羨ましくても飛び出す勇気もなかなか持てるもんじゃないということ。
やっぱり、失ったものは大きい。
じゃあ、得たものは?


「あとがきにかえて」。

“・・・そういう時、私は深くしみじみ腹のもっと下の方から幸せだなあ、こんな幸せ生れてはじめてだなあ、今日死ななくてもいいなあ、と思うのだった。
 意味なく生きても人は幸せなのだ、ありがたい事だ、ありがたい事だと、ヘラヘラ笑えて来た。
 命をころげ落ちながら、ヘラヘラ笑う事にぎょっとする事もあったが、顔はヘラヘラし続けた。”

そうか、わかった。
感受性がある人だからなのだ。
都会的な、表面的な生活は感受性に乏しくてもある程度楽しめるだろう。
たくさんお金があれば幸せ、というモノサシしか見つからないだろう。
もちろんお金が無さ過ぎると困ることも多いけれど。

小さな野の花に喜ぶ心。
どこにいても幸せになれる心。
地面を踏みしめて歩くこと。


今だからこそ、佐野さんの言葉たちにとても力を貰いました。
他の著作も早速Amazonで!


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2011年02月20日

プラグマィズム / W. ジェイムズ 桝田 啓三郎訳

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昨年末に、サンデル教授と併読していたこちらの本。
化学反応が良すぎて、ジェイムズかサンデルかどちらの意見だったかわからなくなり、ジェイムズを中断したほどでした。
テレビやTEDで見るサンデル教授の熱の入った講義が、紙上のジェイムズの熱い語り口に重なります。


“プラグマティズムは、もっともアメリカ的なものの考え方であり、今日のアメリカ資本主義社会とその文化を築き上げてきた基調である。本書は、このような考え方を初めて体系づけ、ヨーロッパの伝統的な思考方法を打破した点で不朽の功績をもつ。アメリカ的なものの見かたの核心は、じつにこの一冊に圧縮されている。”

始めの章を読んで“まさに今自分が読むべき本”だと確信しました。


第一講、「哲学におけるこんにちのディレンマ」。


“哲学は人間の営みのうち最も崇高なものであると同時に最も瑣末なものである。”

然り。哲学が不要な人もたくさんいて、しかも“「一片のパンをも焼きはしない」”。
だけど、それが無いと生きて行けない人間も大勢いる。


“哲学の歴史はその大部分が人間の気質の衝突とも言うべきものの歴史である。・・・
 専門的哲学者というものは、どのような気質をもった者であっても、哲学するに当たっては、自己の気質という事実をつとめておし隠そうとする。気質が論拠になるなどということは伝統的に承認されていない、そこで専門哲学者はその結論の拠って来たる理由としてただ没人格的な論拠のみを主張する。けれどもじつは彼の気質の方が、これよりもより厳密に客観的な前提のいずれよりもいっそう強く哲学者の傾向を定めるのである。・・・
 哲学者は自己の気質に安んじて身を委している。哲学者は自己の気質に適する宇宙を求めるがゆえに、それにかなった宇宙解釈であればどんな説でもそれを信頼する。・・・

 しかしながら公の論壇においては、ただ自己の気質を根拠とするだけでは判断力の卓越さや権威を要求することはできない。ここにおいてわれわれの哲学的議論には一種の不誠実が生じてくる、すなわちわれわれのすべての前提のうち最も有力なものに決して触れないという不誠実である。”


切っても切り放せないのだから、その重要性を直視する。
そうか、それまでは哲学者の人格は考慮されていなかったのか。
これほど属人的な‘学問’も無い。
キェルケゴールとカントをどちらも読んでみて心底そう思った。


“・・・いやしくも人間は事物を観察すべきであるということ、すなわち自分独特の方法でまっすぐに見るべきであって、自己と反対のものの見方ではいかなるものにも満足しえない”

客観を持つ人間なぞいない。
小林秀雄さんの強い語り口を思い出す。
この第一講を読むと、ジェイムズの動機が胸に熱く迫る。


“はっきりした経験論者的傾向を帯びた人がこんにちほど数多く出現した時代はかつてなかった。”

小林秀雄さんが非常に憂いていらしたのもこのことだった。


“事実を尊重するからといって、われわれのうちにある一切の宗教心が打ち消されたわけではない。
 事実を尊ぶ心それ自身がほとんど宗教的なのである。・・・
 いまこのタイプの人間をとって、彼がまた哲学のアマチュアでもあって普通一般人のやるように色とりどりの思想をごったまぜにして持っていることに満足しないとしてみよう、そうすれば彼は、紀元一九〇六年というこの聖代にあって、いかなる立場にあることを見出すであろうか。

 彼は事実を求める、彼は科学を求める、しかし彼はまた宗教をも求める。

 しかも彼は一個の哲学アマチュアであって独創的な哲学者ではないから、そこで当然すでに哲学界に名をなしている専門家や教授たちに指導を求めることになる。・・・”


いやはやまったく、自分のことを言われているようで。
そう、合理論も経験論も、いずれかでカタがつくほど自分の傾向がはっきりしているわけでなく。
世界の状況は変わる、とくに科学の進歩は著しい。
当然ながら思想や価値観に影響を与えずにはいない。
サンデルやジェイムズを読む意味はそこにある。
彼らと同じ、または近しい時代背景を共有しているということは何て有難いんだろう!


“諸君は二つのものを結合せしめるような一つの体系を要求している。
 すなわち一方においては事実に対する科学的忠実さと事実を進んで尊重しようとする熱意、簡単に言えば、適応と順応の精神であり、もう一つは、宗教的タイプであるとローマン的タイプであるとを問わず、人間的価値にたいする古来の信頼およびこの信頼から生ずる人間の自発性である。
 そしてこれがつまり諸君のディレンマなのである。・・・”


ここに引用されているある学生の話。
雑多・錯雑・混濁の現実と、単純で清らかで高貴な哲学の世界。
没交渉なふたつの世界。
“洗練された”美しい世界は、ひとつの“逃げ道”でしかなく、現実を少しも変えられはしない。



そこで、「プラグマティズム」があらわれる。
簡単に言うと、「結果、役に立つならばその考え方は正しい」ということ。



“現実の世界は儼としてここに立っている、それは取り返すことのできぬ贈り物なのである。
 この世界の原因を物質であるとしたところでこの世界を造り上げた諸項の一つだってとりけせるわけでなく、また神をその原因に仕立てたところでそれをふやせるものでもない。・・・
もし神が存在するとしても、神はアトムが為しえただけのことしか為さなかったし、―いわばアトムの性格をとってあらわれて、アトムの受けるべき感謝と同じ感謝を受けるまでであって、決してそれ以上ではない。”


こんな哲学者の話を聞きたかった。
たくさんの人が救われただろう、これからも救われるだろう。
同じように、救われない人ももちろんいるんだろう。
自らの心がどんな風に落ち着けられるかは、それこそ“気質”の問題。


第八講、「プラグマティズムと宗教」から。

“・・・それなら、いやしくも何かが生じて来ねばならぬといういかなる種類の究極理由がありうるというのか?
 論理、必然性、範疇、絶対者、そのほか哲学工場全部の製造品をお気に召すままに持ち出されて結構であるが、およそ何ものかが存在しなければならぬという現実的な理由としては、誰かがそれのここにあることを欲するというただ一つの理由しか私には考えられないのである。
それは要求されてあるのである、―どれほど小さい世界の部分であろうとそれをいわば救助するために要求されてあるのである。
これが生きた理由なのであって、この理由に比べると、物質的原因とか論理的必然性とかは幽霊みたいなものである。”


どんな思想も、誰かの、何かの要求がなければ生まれない。
“もともと完全”な“究極理由”なんて、どこにもない。

ジェイムズは、真理とは既に決まっていて変わらずにあるもの、発見するしかないものではなく、
要求によって常にかたちを変え、発展してくものである、と熱弁する。
必要があれば、創りだしていけるもの。
自分たちで、変えていける。
そう信じたほうが、より良くなっていける。
一元論は、人を受動的にする。

“未来は無邪気に割り振られ 人は黙ってそれを待つ”
syrup16g、「タクシードライバー・ブラインドネス」の歌詞。
そういう部分も勿論ある。でも、それだけじゃない。
自分の力で動かせる部分とそうでない部分、予測可能なものと不可能なもの、それらの混ざり合う現実=茂木健一郎さんの言う「偶有性」の世界が拡がっている。
どっちかに決められないし、決めてしまっては勿体無い。

茂木さんの「生命と偶有性」とも非常にリンクする。
少しずつでも、着実に、人間の思想は進化している。
いや、時代に合わせて変化している。

カント、ジェイムズ、サンデル、茂木さん。
皆それぞれの時代にそれぞれの思想を持っているけれど、共通しているのは“良くしよう”という必死の意志。
読めることのなんてありがたいこと!


こうして振り返ってみるたびに、「復習」を経て自分の言葉を書くことの重要さを実感する。
「生命と偶有性」を含め、あと5冊ほど「復習」がまだできていない。
読んだら早く書きたい・・・書かねば。


ジェイムズの他の著作も読みたいし、カントも茂木さんも・・・いつまで経っても読みたい本が減らなくて、嬉しい。

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2011年02月12日

桜の園 / チェーホフ 作 小野理子訳

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チェーホフの復刊・新訳が相次いでいて嬉しい近頃。
戯曲作家としても名高い彼ですが、これまでは小説しか読んでいなかったのでまずは代表作であるこちらから。

“南ロシアの5月,美しく咲いた桜の園に5年ぶりに帰ってきた当主ラネーフスカヤ夫人.思い出に浸る彼女を喜び迎える屋敷の人びと.しかし,広大な領地はすでに抵当に入り,まもなく競売にかけられる運命にある.さまざまな思いの交錯するなか,いよいよその日がやって来た…チェーホフ最後の,そして最も愛されてきた戯曲.”


チェーホフ自身が言うように、これは素晴らしい喜劇。
こうの史代さんのエッセイ集「平凡倶楽部」に、こんなことが書いてあった。

“正義や愛なんて頼りない軽々しいものだった。
 それに頼って生きる我々の「生」だって儚いものだった。
 この世界は、判らないものに満ちている。
 それだけで何故かつい笑ってしまう。”

こうのさんの漫画を読んでいて感じるものと、チェーホフを読んでいて感じるもの。
根底にあるやわらかくて熱い鼓動。
茂木さんのおっしゃるところの「偶有性」を、進んで受け容れ、楽しむ姿勢。

逃げずに目を見開いて“生きて”いらっしゃるお二人だからか、通じるものを感じます。
真に表現者たりえるのはこういう方。



農奴が解放され、変化の只中にあったロシアの地主。
美しい「桜の園」を持ち、借金で生活が立ち行かなくなっても、どうしてもそれを手放したくないラーネフスカヤとその家族。

変化をまず受け容れようとするのは、いつの時代も若者から。

第二幕、ラーネフスカヤの娘アーニャへのトロフィーモフの言葉。

“・・・いいですか、アーニャさん、
 あなたのおじいさん、ひいおじいさん、代々の御先祖は皆、生きた人間を所有してきた農奴主でした。
 園の桜の実の一つ一つ、葉の一枚一枚、幹の一本一本から、人間の目があなたを見てはいませんか、声が聞こえはしませんか?
 
 人間を所有する―この事実が、あなたがたみんなの、過去にいた人、現在いる人みんなの、人格を変えてしまった。
 その結果、お母さまもあなたもおじさんも、自分たちが負債をしょって生きていること、
 あなたがたが控えの間より奥へ通しもしないその人たちの、稼ぎによって生きていることに、気付いていないのです。

 われわれは少なくとも二百年は遅れている。
 過去に対するけじめもつけぬまま、いたずらに哲学談義をするか、憂鬱がるか、ウォトカを飲んでいる。
 でも問題ははっきりしてるんだ―現在を生き始めるには、まずわれわれの過去に償いをし、過去に決着をつけなければならない。
 その償いは、苦労すること、絶え間なく限りなく労働することによってのみ、可能なんです。・・・”


なんて、尊い。
チェーホフの、すべてに等しく向けられた愛。

満月の光のような。
太陽のように暖めはしないが、すべてを等しく美しく照らすひんやりした円い光。



第三幕、ついに売られた桜の園。買ったのは、この園の農奴だった家から成り上がった息子、ロパーヒン。

“・・・おお神様、なんと、桜の園がわたしのものになった!
 酔っ払いのたわごととでも、気がふれて幻を見ているんだとでも、お好きなように言ってください。
 わたしのことを笑っちゃいけません!
 もし、うちの親父や祖父さんが柩の中から起き上がって、この顛末を、餓鬼のエルモライ、いつもぶたれて、文字もろくに読めず、冬も裸足で駆け回っていた、彼らのエルモライが、世界中に比べるものもないほど美しいこの領地を買ったのを見たら、何と言うだろう!
 祖父さんや親父が奴隷だった、台所にさえ入れてもらえなかった、その領地をわたしは買った。
 わたしは夢を見ている、ただそんな気がしているだけなのだろうか・・・。”


執着する姿は滑稽である。
そして、愛しい。
誰しも何かに執着せずには生きられない。
真剣だからこそ滑稽で、笑みをこぼさずにいられない。
自分も例外なく、そう。
滑稽、結構!
恥ずべきはそんなことじゃない。


以前神西清さんのチェーホフ論で、彼の“非情”さが語られていた理由が、もう少しだけわかった。
自らに真剣な滑稽さを見出せないからこそ、他人のそういう“長所”に対する羨望に似た愛情があったのかもしれない、と。
私から見たら、誰もが「悲劇」だと受け取る戯曲を「喜劇」だと真面目に主張する彼のエピソードを見ると笑ってしまうほど愛らしく思えるけれど。


まもなく岩波文庫からチェーホフ一幕物全集が復刊されます。
しかも訳者は米川正夫さん!
首を長くしてお待ちしております。


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2011年02月06日

“QUOTATION” Worldwide Creative Journal no.9

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既にno.9ということですが、初めて拝見したこの雑誌。
この表紙のパワー!!
こういう出会いがあると、あまりの嬉しさにニヤニヤしながら本屋を徘徊し続ける雑誌オタク。
こう、いい出会いは重なるもので、背表紙しか見えない棚から雑誌を漁っていたらこの日は2冊も素敵な雑誌を発見しました。
近所の書店で、ってところでまた悦びも一入。
ほんっと雑誌はやめられない!


表紙の次にツボなポイントが、目次。
こここそ誌面デザインの肝!・・・だと思います。
単なるオタクなので不適切な表現でもご容赦を!

1枚めくっただけで、この雑誌購入決定しました。
そう、値段は二の次三の次。
ですが見てびっくり、たったの580円!


ほんと、ニヤニヤが止まりませんでした。
めったにないもの、こんな出会い。


p12〜、米津智之さん。

「THE REALITY SHOW」のフォント、滅茶苦茶カッコイイ!

“ぱっとみた一瞬で人の心を摑むことができる。
 僕はこの職業を選んでいる以上そこで勝負がしたい。”

言葉と作品の一致。

一瞬でこんなにかっこいいと思ったフォント初めてだ!



p32〜、鈴木康弘さん。


「HAPTIC」のキャベツ、印象的です。

捉える心眼があれば、同じ世界もまったく違って見える。



「ファスナーの船」!!!

瀬戸内芸術祭で実際に運行されていたという、ファスナーの頭の形をした船。


“地球を開く”、なんて!!!


なんて脳みそをしていらっしゃるのか!




他にも情報盛りだくさん☆
すっっごくお徳な雑誌、絶対損なしです。

「次号は本格的にリニューアル予定」とのこと。
良い方に期待が裏切られるのを楽しみにしております。


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2011年01月15日

黄金虫・アッシャー家の崩壊 他九篇 / ポオ作 八木 敏雄訳

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記憶の劣化速度に悩む近頃。
「ドラゴン桜」から記憶力アップのノウハウを学ばせて頂いております。
昨年末に読んだ本も、忘れないうちに。

このポオの短篇集は、全体を読み終えるのに半年くらいかかりました。
併読するのにぴったりなので、他の本を読んでいる合間の気分転換として。

あらすじ:
“均整と統一という明確な方法意識を持っていたポオ(1809‐1849)は、短篇小説に絶妙な手腕を発揮した“スタイリスト”であった。胸躍る痛快な暗号解読の物語『黄金虫』、夢幻的雰囲気と緊迫感にひたされた『アッシャー家の崩壊』―。『ボン=ボン』『息の紛失』等、ノンセンス物も収録した、ヴァラエティゆたかなアンソロジー。”

ポオの“ノンセンス物”を読んだのは初めてで、驚きました。
世界最初の推理小説「モルグ街」や怪奇もの「黒猫」、詩「Raven」など、それでも十分すぎる品揃え。
それでもまだ新たな一面に出会えるとは!


「息の紛失」は、ゴーゴリの「鼻」を思わせる。
「群集の人」は「ネフスキイ大通り」を。
奇しくも同い年、しかし19世紀のロシアとアメリカ。
相互に影響はあったのでしょうか。


「ボン=ボン」「息の紛失」「『ブラックウッド』誌流の作品の書き方/ある苦境」は“ノンセンス”物。
ボン=ボンは、「巨匠とマルガリータ」を描いたブルガーコフに必ず影響を与えているに違いない!

悪魔ってどうしてみんなこんなに可笑しくて可愛らしいんだろう。
超越的な存在のようでいて、人間の滑稽さを純粋培養したような。
“悪”は、いつもどこか滑稽だ。
ハウルに出てくるカルシファーにも共通するところ。

これらはあまりにも一篇の小説として完成されていて、あまり一部を取り出す気にならないので、ポオに影響を受けたという坂口安吾氏の「FARCEに就て」から引用。


“・・・ファルスは、その本来の面目として、全的に人を肯定しようとする結果、いきおい人を性格的には取扱わずに、本質的に取扱うこととなり、結局、甚しく概念的となる場合が多い。”

まさにボン=ボンは、「料理店主」であるだけではなく、「形而上学者」である。
形而上学に個性は不要。


“一体、人々は、「空想」という文字を、「現実」に対立させて考えるのが間違いの元である。
私達人間は、人生五十年として、そのうちの五年分くらいは空想に費やしているものだ。
人間自身の存在が「現実」であるならば、現に其の人間によって生み出される空想が、単に、形が無いからと言って、なんで「現実」でないことがある。
実物を摑まなければ承知出来ないと言うのか。
摑むことが出来ないから空想が空想として、これほども現実的であるというのだ。
大体人間というものは、空想と実際との食い違いの中に気息奄々として(拙者なぞは白熱的に熱狂して―)暮らすところの儚ない生物にすぎないものだ。
この大いなる矛盾のおかげで、この箆棒な儚なさのおかげで、兎も角も豚でなく、蟻でなく、幸いにして人である、と言うようなものである、人間というものは。”

まったく、そうですね。
これは小林秀雄さんの「信ずることと考えること」という講演CDの中の、ベルグソンについてのお話に通じた。
感受性の足りぬ理由に科学を言うな。
「客観的」って何だ、主観じゃない人間がどこにいる、と熱く語る。
“実物を摑まなければ承知出来ないと言うのか”。
ラクばかりしていては心眼は曇るばかり。
怠慢は、自分の人生にはねかえってくる。

ヴァレリーの“魂と舞踏”にある“酔い”ともリンクする。
“現実を純粋状態で経験したら、心臓は即座に停止してしまう”のだ。
“べらぼうな儚い空想”が可能だからこそ、人は生きていられる。



“芸術家とは自己の幻影を他人に強うることのできる人である。”

こちらは「意慾的創作文章の形式と方法」から。
ものすごく腑に落ちた。
ポオは、自己の幻影を“強いられている”と感じさせずに、むしろエンタテイメントとして供給する。


ゴシック小説も、当然ながらエンタテイメントだ。
なぜ、恐怖は娯楽たり得るのだろう?
この短篇集で言うならば、「陥穽と振子」は極上のエンタテイメントだ。
なぜ人は、怖いとわかっていてその仮想に浸るのだろう。
恐怖映画のヒット作は数知れず、おばけ屋敷なんて最たるもの。

現実に還って来たときに得られる安堵のためだろうか。
只の日常を愛しく感じるための。

いかに人は、相対的に物事を感受しているか。
断食のあとの食事はどれほど美味しいことだろう。

「陥穽と振子」で、最後に助けが来るところまで描いた理由を想う。


「黄金虫」。
これにはまったく脱帽!
ドイルの「踊る人形暗号」はポオへのオマージュに違いない。
とても爽快な気持ちになります。

つくづく人は、理屈―筋の通ったことが好きなんだ。
それは、脳に気持ちが良い。
現実の世界はカオティックで説明のつかないことに溢れているから。
説明がつかないことは理不尽に感じられ、ストレスにつながる。
“納得できる”説明がいつも、欲しいものなんだ、脳は。

そんな、脳にとってのラクばかりしていられない世の中だからこそ、ミステリの需要が多いのだろう。
最も本が売れているジャンルは、ミステリなのだそうです。納得。



最後の一篇、「アモンティラードの酒樽」。

これは、ゴシック小説としてみればエンタテイメントだけれども、あくまでそこまでで、動機を掘り下げて描いてはいないけれども、ひとたび心に焦点を当てれば非常に悲しい小説。

粘着質な恨みの感情。
こういうものに触れると、主題ではないとわかってはいても、悲しくなる。

この人は、幸せをあきらめた人。
復讐は悲しい。
復讐せずには自分の幸せは還って来ないと、ひとたび思えば遂げるまで。
復讐の後、幸せになれた人はいるのだろうか。
自己の中の絶対者に嘘をつくことなく?
ドストエフスキー「白痴」のムイシュキン公爵が恋しい。


これほどバラエティに富みつつ、すべて完成度が高い作家はポオ以外にいない!
この短篇集は入り口として最高だと思います。


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詩人と狂人たち / G.K.チェスタトン著 中村 保男訳

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“ブラウン神父”シリーズで知られるチェスタトンの短篇集。
ミステリとしてはかなり異色な「木曜の男」を読んで以来すっかり虜。
多彩多作なことで知られるチェスタトン、なんとスティーブンスンやディケンズ、バーナード・ショーの伝記も書いているようです。
そちらも気になりますが、何と言ってもこの短篇集!
この1冊でチェスタトンが一層大好きになりました。


あらすじ:
“ガブリエル・ゲイルは風変わりな詩人画家であるが、いくつかの怪事件を解決した名探偵でもあった。「もし、あたり一面についた誰かの手の跡を見せられたら、その男がなぜ逆立ちをして歩いたか教えてあげましょう」彼自身狂人で逆立ちをよくするから、それがわかるというのだ。奇怪な事件を解決するゲイルの幻想的な探偵作法。全八編収録。”

主人公ゲイルの魅力的なこと!


「鱶の影」の中の一節。

“・・・しかし、ぼくが何よりも避けたがっているのは、発狂することだ。
 もしぼくが、深淵を越える綱渡りでバランスを失ったら、
 同じ仲間の狂人たちになんにもしてやることができなくなるじゃないか!”

狂人たちに共感できる、ということは自らも“綱渡り”をしているということ。
その、深い淵を恐れず覗き込み言語化する知性とタフさ。
深い感受性。
そう、感受性!
ゲイルを描き出すチェスタトンの筆力といったら!

誰の真横にもあるのに、ほとんどの人は恐れて近寄らない深淵。
そこで思考停止できることは器用さでもあるかもしれない。
恐らく、怖くない人はいない。それでもうまく避けられない不器用な人間もいる。
自分も、それができない不器用さを持っているからこそきっと、ゲイルを愛さずにいられない。


同じく「鱶の影」から。

“・・・事物の上に投げかけられたあの恐るべき無情の光がついには老人に対する尊敬や、他人の所有物への尊重などといった精神の神秘を枯死させて幻影と化し、 生命の神聖が迷信にすぎなくなってしまうだろうと、あなたは考えませんか?
 街を行く人びとは、どれもこれも、大なり小なり器官をさらけだした有機体にすぎぬというわけです。・・・”

あまり引用するとネタバレになるかもしれませんがご容赦。
この動機は、ヴァン・ダイン「僧正殺人事件」を想起させる。
この短篇集は、トリック云々よりも、人心の深淵に踏み込んだ動機を紐解くことに主眼が置かれ、科学的/論理的な推理はあまりありません。
ダインの“心理的探偵法”よりも一層、“心”に近づいた描き方。
・・・こんなに面白いミステリ読んだ事無い!!


「ガブリエル・ゲイルの犯罪」より。

“・・・唯物論者であるのが残念だというのですか!
 ほんとうに残念に思わなければならないものは何か、あなたにはあまりよく分かっていないようですね!
 唯物論者は安全です―少なくとも、地上界を受け容れていて、
 自分がこの世界の創造主だなぞと思いこまぬ以上、かなり天国に近いのです。・・・”

“・・・抽象的に言って、全物質界が自分の肉体の一部と想像するのは、それほど不自然なことでしょうか?
 ある意味から言えば、万物はみな同様に自分の心にあるのですからね。
 でも、地獄にいるというのは、万物が自分の心の内部に存在するときを言うのです。・・・”

“・・・恐るべき懐疑、致命的で地獄におとさるべき懐疑、それは観念論者の懐疑なのです。”

なんて愛のある人だろう!
なんて目で人を見ているのだろう。
ゲイルの中の、生きた哲学を、もっと聞きたい。
なぜ、たった8篇しかないのだろう!


最後の一篇が、最初の一篇を説明し、ガブリエル・ゲイルのひととなりを一層教えてくれます。
わかったことで一層ゲイルが好きになって・・・終わり。
読み終えてしまったことがとても淋しい。

ゲイルが恋しいけれど、もう続きはない。
しばらくはブラウン神父シリーズの中に彼の欠片を探そうと思います。

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2011年01月13日

エウパリノス・魂と舞踏・樹についての対話 / ポール・ヴァレリー 清水徹訳

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読んでから3ヶ月も経ってしまいました。
「ムッシュー・テスト」を読んで以来大好きになりすぐに読み始めたこちら。
表紙のヴァレリーの写真を見てびっくり。
俳優さんのような超男前です。
澄んだ目の力強さが強力な知性の煌きを隠さずには置かない。
面と向ったなら内側を見透かされそうで照れてしまいそう。
顔には内側が現れるもの。
そうか、「田園交響楽」のジェルトリュードが見えるようになって得たものは、言葉になっていない真実だったのかもしれない。
見えなかったことで一層研磨された感受性の持ち主だから尚更。
“見た目で人を判断するな”やら“人は見た目が9割”やら様々に言われるけれど、いずれにしても見る側の心眼に拠る。
上澄みしか見えない心眼の持ち主に何と言われようと意に介する必要はないけれど、
容姿も中身も美しい人の求心力が強いことは確か。
生活や精神がしっかりしていたら、少なくとも“不潔”な印象にはならないだろうし。
・・・何が言いたいかと言うと要は、ヴァレリーは両面を兼ね備えた稀有な人だったということです。



ペトラルカと同時進行して読んでいたこちらの本。
いろいろと同時に読むと、連鎖してゆく化学反応が楽しくなります。
ヴァレリーも影響をうけたということでポオの「ユリイカ」を読み始めたら、ヴァレリーだけでなくガルシア・マルケス「百年の孤独」との化学反応が思いのほか良かったり。
柄谷行人さんやサンデル教授をちゃんと読むために、遅々として進んでいなかったカント三大批判を再開しているのですが、これがポオ「ユリイカ」との相性がとても良かったり。

読書の楽しみは尽きません。
寒いとますます、家でぬくぬく読書が一番。


あらすじ:
“ヴァレリー(1871‐1945)の最も美しいとされる三篇の対話。建築と音楽を手がかりに哲学と芸術の岐路をソクラテスが弟子に語る「エウパリノス」、詩人によるダンス評論の古典「魂と舞踏」、最晩年の「樹についての対話」を収める一冊は、『カイエ』『ムッシュー・テスト』等、思索と創造二つの道を歩んだ20世紀知性の内面を明かす。”


いずれもまるでプラトンを読んでいるかのような素晴らしい対話篇。

1篇目、エウパリノス。

冥界にいる設定とはいえソクラテスにこんなことを言わせるなんて、なんて小説、なんて天才!
でもほんとに、建築は素晴らしい創造、複合芸術。
建築巡りしたくなります。
小説も一種の建設だ、と池澤夏樹さんがブルガーコフを評しておっしゃっていたことを思い出す。


2篇目、魂と舞踏。


“豊穣はひとを動けなくさせるのだ”

生身の力はどんなにネットが進化しても変わらない。
同じ場にいる、ということの大きさを感じる。


“生きることへの倦怠”に対する“薬”とは何かを問うソクラテス。
それに対しエリュクシマコスはこう答える、
“それほどまでに理にかなった病をなぜ治療するのです?”


“物事をありのままに見ることほど、それ自体としてこれ以上病的で、これ以上に自然に敵対する振舞いは、何一つありはしない。
…現実を純粋状態で経験したら、心臓は即座に停止してしまう……
…魂は魂自身の前に、空虚で測定可能な姿として立ち現れてくるのです。”


…そう、その、恐ろしい体験。
それは突然やってくる。
準備のできていない魂は打ちのめされる。

だから、“酔い”が必要である、と。

“…宇宙は、みずから在るがままのものでしかないことを、ただの一瞬でも許容することができません。
 …なぜ死すべき人間が存在するのかという理由も、それ以外にはありません。
 死すべき人間は何のためにあるのか?―人間の仕事は知ることです。
 知ること?それならば、知るとは何か?それは…
 …まぎれようもなく、自分が在るがままのものではなくなる、ということです。
 ―したがって、人間どもは錯乱し、思考し、自然の中に際限のない誤謬の原理と、
 あれら無数の驚異を導入するのです!…”

うん。

“賢者の拷問”。なんて的確!
 ここで言う「賢者」は、知恵の実を喰らった生物、人間すべてのことだろう。

“だからエリュクシマコスよ、きみは思わないだろうか、
 あらゆる酔いのなかでもっとも高貴な酔い、
 あの大いなる倦怠におっとも敵対する酔いとは、行為に由来する酔いなのだと?
 わたしたちの行為、とりわけ身体を活動させる行為は、
 わたしたちを奇異であると同時に讃歎すべき状態へと入りこませる……
 この状態は…じっと動かぬまま世界を明晰に見つめる観察者の置かれたあの哀れな状態から、この上なく遠い。”


あぁ、哀れなテスト氏!
ムッシュー・テストの悲哀が一言でずばりソクラテスによって語られる。

ヴァレリーのこの視点が大好きだ。
テスト氏の悲哀を体験した人だけが語ることができる物語。
ヴァレリーが孤独から救い、心の友人テスト氏を得た人がきっとたくさんいることだろう。


舞踏がクライマックスへ近づく。

“…それにしても、いかにそれは精神と戦っていることか!
 きみたちには見えないだろうか、身体が魂を相手に速さと多様性を競おうとしていることが?
 ―身体は、精神が自由と遍在性とを所有していると思い、それを奇怪なまでに嫉妬しているのだ!…”


ソクラテスの頭脳もクライマックスへ。
出来事としては静かだけれど非常にドラマティックな物語。
ヴァレリーが一層身近に感じられた話でした。


3篇目、樹についての対話。


“…わたしはこう観察したのです、およそいかなる思想であれ、
 魂のぎりぎりのきわにまで追いつめてゆけば、わたしたちを言葉のない辺境、
 あの無言の辺境、そこにはただ、あの永遠と偶発と束の間の混合、
 つまりわたしたちの巡りあわせがわたしたちに感じさせる憐れみと優しさと
 一種の苦しさだけが存続しているような辺境です。”

“…わたしたちとして怖れるべきは、ただわたしたち自身だけだ。
 神々も運命も、わたしたちの感じやすい心の琴線の裏切りによるのでなければ、
 わたしたちに何の働きかけもできない。
 わたしたちの一段と低い魂に対して、神々と運命は卑劣な支配をする。
 それらの権力はけっして<英知>の仕業ではない。
 そうではなくて神性は弱々しい身体たちのなかに、至高の論拠として、賢者の拷問を見出すのだ。”

最晩年というこの作品でも、やはり共通している“賢者の拷問”。
目を逸らさずとも発狂しない強靭な頭脳。
晦渋な表現を尽くしても現実の混沌には足りない。
だから書き続けたのだろう。


読んだ後に残ったのは、愛でした。ヴァレリーという人への。
私この人のこと熱狂的に好きだ、とこれほど思った小説家はめったにいない。
チェーホフとヴァレリーぐらいでしょうか。
作品への、ではなく、作家本人に対しての愛。
“共感”という点ではチェーホフ以上。

手元にあと2冊岩波文庫であるのですが、読んでしまうのがもったいなくて悩みどころです。



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2011年01月05日

新建築 2011/01 No.86 豊島美術館

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あけましておめでとうございます。

この“Magazine Addict”も6年目に入りました。
買った本・雑誌・漫画の数に比較するとちっとも記事数が伸びていないけれど、これからもよろしくお願いします。
タイトルが“雑誌中毒”なのに、雑誌のレビューより本のレビューのほうが増えてしまっていますが、これで丁度雑誌100冊目!
雑誌の蔵書は400冊くらいあるのでいかに当初の目標:全購入誌のレビューが達成できてないか・・・
全部書くのがあくまで目標です。
記憶力に乏しいので、思ったこと気になったことを検索できるようにしたい。
新年ということで初心を思い出しつつ、100冊目の雑誌は大好きな「新建築」。


今月のこの表紙、書店で並んでいる数々の雑誌の中でも際立った訴求力!
この「豊島美術館」、できる前の模型をこれまた雑誌で見て興奮していたのですが、想像を上回る魅力に一目惚れ。
去年の秋に瀬戸内芸術祭が行われた瀬戸内海に浮ぶ島。
以前見た記事では、中の展示は「内藤礼による作品1点を永久展示」としかなかった。
一体どんな作品なんだろう!?とドキドキしながらページをめくると・・・

!!!!


是非、見てみてください。


またこの写真が、素晴らしい。
一部、晴れている日のものもあるけど、表紙の空は薄曇り。
有機的な造形の中に反射する光のやわらかい美しさ。

何という空間だろう!

読めば精緻な計算に基づいた曲線にうっとり。
この雑誌の好きなところは、材質や作り方まで載っていること。
もちろん専門誌だから当然かもしれませんが、素人が見ても想像力が膨らんでとても楽しい。

設計は今をときめくSANAAのお一人、西沢立衛さんです。
これはもう、見たら行きたくなること間違いなし。



そして今最も資本が集まる国といえば勿論、中国。
いくつも掲載がある中で圧巻なのが“三里屯SOHO”!

デジタルの世界かと錯覚しそうなファサードでありながら曲線美も併せ持つ、トータライズされたひとつの街。
こちらは隈研吾さん!
これは中国に行く機会があったら是非体験したい!


隅々まで読むには1週間くらいかかりそうな内容の濃い雑誌。
少し高級な雑誌ですが、私のような素人でも美しい写真や詳細な図を見ているだけで楽しめます。


論文やエッセイなど読みものも豊富なのですが、また後日。
毎号が永久保存版なのでお買い逃しなく!

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タグ:新建築
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2010年12月31日

これからの「正義」の話をしよう―いまを生き延びるための哲学 / マイケル・サンデル著 鬼澤忍訳

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大晦日です。
今年読んだ本は今年のうちに・・・と思っていたのですが、残り数時間を切った今、残り5冊。
書き終わるかどうかはさておき、2010年のベストセラーのうち唯一読んだ本がこちら。
むしろベストセラー本を、売れたその年に読んだことなんてほぼありません。
ひねくれ者だから・・・というのも理由の一つであることは否定できませんが、無知な私はまだまだ古典を読む必要がある、というのが主な理由。

下記のあらすじから、カントについて言及していることがきっかけで手に取った次第です。

“哲学は、机上の空論では断じてない。金融危機、経済格差、テロ、戦後補償といった、現代世界を覆う無数の困難の奥には、つねにこうした哲学・倫理の問題が潜んでいる。この問題に向き合うことなしには、よい社会をつくり、そこで生きることはできない。アリストテレス、ロック、カント、ベンサム、ミル、ロールズ、そしてノージックといった古今の哲学者たちは、これらにどう取り組んだのだろう。彼らの考えを吟味することで、見えてくるものがきっとあるはずだ。ハーバード大学史上空前の履修者数を記録しつづける、超人気講義「Justice(正義)」をもとにした全米ベストセラー、待望の邦訳。”


本当に、これは今、読んで良かった。
同じ時代を生きる者同士、お互い当事者として著者と“対話”できること。
古典ばかり読んでいた私にはとても新鮮な体験でした。
小林秀雄さんが生きていらしたらなぁ。


2章から8章まで、現在広く支持されている様々な“思考のモノサシ”が例を挙げてわかりやすく説明されています。
ベンサムの功利主義、リバタリアニズム、市場と倫理、カント、ジョン・ロールズ、アリストテレスなど。

特にカントについて書かれた第5章は、期待以上に面白かった。
「啓蒙とは何か」に続き三大批判を読み始めて遅々として進んでいない私は、サンデル教授のおかげでもっともっと読みたい知りたい、カントと対話をしたい、と思いました。
読書への批判を露わにする人もいますが、それはあくまで自らの思考をさぼる場合、本を鵜呑みにして解った気になる場合に限られる事。
著者と対話し思考の材料にすることで、一人で考えられる以上のことを考えることができる。
“巨人の肩”の上からはじめるほうが当然効率が良い。
サンデル教授はさらに、カントという巨人の肩へ昇る梯子をかけてくれました。

この授業、人気あるのわかります。
適切な例、適切な問い。“伝えたい”ということがとても伝わってくる。
人に伝える才能に長けた方。
まさに時代が求める人。


そして第9章から、結論へ。

僭越ながら、サンデル教授の話す結論は、私の求めるものと一致したと感じました。
多様な人間がいる現代、“道徳的・宗教的問題について意見が一致しない。そのうえ、そうした不一致は合理的だ。”
当然のこと。均質化してしまっては進歩はない。
これまでは、その不一致を避ける事で、黙ることによって事を進めてきた。
それは、そうすべき段階だったのだと思う。
これまでは問題を回避する姿勢でよかった、逆にいうと、それ以前の問題だった。
つまり「そんな細かい事はとりあえずおいといて」進められる部分は先にすすめる必要があった。
それでこそ得られたものも大きいに違いない。

ただ、その姿勢に無理が生じてきた。
回避の限界が来て、次のステップが本当に必要になっている。
つまり、クローズの姿勢のままでできることはもう終わって、オープンに移る必要があるときということだ。
当然限界は何にでもある、だから方法を移行していく必要がある。
避ける姿勢のままではどうにもならない段階に入ってしまった。
先送りにしてできることはもう大体終わった。
残された問題について、正面切ってぶつかりあっていく必要がある。
その“残された問題”こそが“正義”の問題。

カント/「すべての人間は、理性あるがゆえに尊敬すべき存在だ」―その通り。
では、“個”のままでいる人間ひとりひとりの理性はそれほど“できた”ものか?―否。
アリストテレス/「他者と善について討議する、行動する、実践することによってのみ人は善になる」―そう、社会の一員としてのみ、人は人である。たった一人では、言語を必要としない=理性を必要としない。人間と動物を区別するものが、一人きりの場合には何も無い。

言語を駆使しよう。
意見を戦わせよう。
一致しないのなんて当然だ。
避けていては何も始まらない。
自分はこう、あなたはこう、それじゃぁどうしようか?
と、ケンカ、議論をするのは悪いことだろうか?
結婚式などで夫婦が“ケンカをしたことがない”ことが誉め言葉にされていることにいつも疑問を感じる。
ケンカもできなくて何が夫婦か?
意見が違っていたら一緒にいることはできないのか?
違う事なんてあって当然だし譲れないこともあって当然。
それが本当の人間関係じゃないの?

同じ事は国家間でも言える。
国と国の駆け引きはまったく人間関係と同じだな、と学生時代に良く思った。
要素は個人よりも当然多様なのだけれど、「貪欲で利己的な主体」であることに変わりない。
“国際関係学”は、私が思っていたものと随分違っていた。
自分を、駆け引きのわからない子供だったのだ、人間なんてそんなものだから仕方ない、と思っても良いが、そうやって諦めることはいつでもできるのだからもっと正面から考えたい。
そもそも自分の本性がその考え方=「貪欲で利己的な主体」が前提の、に合わなかったのだと思う。
ぶつかって受け容れて、自分の狭小な器を大きくしたい。
「貪欲で利己的」な面はどこまで変えられる余地はあるか?(あるはずだ)と問いたい。
自分にも他人にも、国家にも社会にも。
まだ、自分に問うている状態ではあるけれど。

カラマーゾフの兄弟でアリョーシャが言っていた言葉を思い出す。
「たとえそういう人間でない者が、ただ君ひとりだけになっても、君はそういう人間にならないで下さい。」


唐突かもしれませんが私は有吉さんが大好きです。
敬愛といったほうが近いかもしれない。
恐れず考えていることを見せる姿勢を、大衆の前で見せてくれているから。
ツイッターで拝見したのですが、座右の銘は「自分を棚に上げる」だそうです。
これってすごく大事。
自分を棚に上げないと、自分ができる以上のことを人に言えない。
自分もできていないけど、でもみんなこうなったほうが良いよね、って言うほうが、
自分ができないことは言わない、ってより、ずっといい。
サンデル教授を読んで、有吉さんを一層好きになりました。




第9章から引用、
“人格者であるとは、みずからの(ときにはたがいに対立する)重荷を認識して生きるということなのだ。”

犯罪者である兄弟を警察に密告することは道徳的に間違いか?
サンデル教授の挙げた例によると、兄弟を売らなかった者は支持され、密告した者は“裏切り者”と呼ばれたそうだ。
密告した方の兄は、多数の死傷者を出した爆弾テロリストだったにもかかわらず。
―私なら、そうは思わない。
犯罪を犯しながら、当の本人が幸せになれるはずなどない。
人を殺して幸せでいられる人などいない。
私はそう思うから、全力で止める。
法の裁きを受け、出来る限り罪を償って欲しい。
それが兄弟を思っての行為でないか?
裏切りだろうか?
例に挙がった、密告しなかった兄弟は、“兄弟を売った”と非難されるのを恐れているのではないか?
本当に兄弟の幸せを願っているか?
当人がたとえ幸せだと思っていてもそれは本当に幸せか?
―他人が判断できることではないけれども。
たとえ仇敵への復讐のためだけに生きている、それだけが生き甲斐だとしても、人を殺して幸せになれる人間はいない。そう確信している。
それなら、私が自分の兄弟を殺されて復讐せずにいられるか?
―わからない。が、絶対にそうはなりたくない。自分も、周りも不幸にするだけだ。

命を奪う権利は誰にも無い。
国家にも無い。死刑は廃止すべきだと思う。
命を奪うまで納得できないなんて、理性ある存在としてそのままでいていいのだろうか。
少なくとも自分は、そうはなりたくない。

清水玲子さんの「輝夜姫」の中で碧が言っていたことを思い出した。
死ぬその瞬間まで、自分を殺した鬼を許し愛そうとした彼。
大切な人を殺された自分はどうしたら良いのか、と聞かれて、
“許して愛すること、そうして鬼がいつか人間に戻ったらそれで良い、
何万人に一人でも良い、そうして人間に戻れたら”
・・・そんなことが言える、言えそうな人間を見たことが無い、知らない。
それでも、自分はそうなりたいと思う。
できないかもしれなくても良い。
碧の言葉が私の胸から消えませんように。

できなかったら、できるようにまたがんばろう。
どうしてみんな、転ばぬ先の杖をついている?
転んだら起き上がればいい、転ばない方法ではなく、起き上がり方をなぜ教えない、考えない?


ぶつかろう、理性ある人と人同士。
暴力への依存を断ち切って。どんなことがあっても暴力、戦争に訴えることはせずに。
そんなのは「ださい理想論」か?
そんなに人間はダメかな?
そうは思いたくない。
現実は、そうだ。少なくともこれまでは。
これからもそうで良いのか?


・・・「これからの正義の話をしよう」。
なんて素晴らしい意訳。
原題は“Justice -What's the Right Thing to Do?”
訳者の方にも熱を感じます。
当たり前だけれど、人間はまだまだ捨てたもんじゃない。
まだまだ変われる、変えられる。
まずは自分から!

来年も良い年にしましょう。
皆様、良いお年を!


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2010年12月24日

ジーキル博士とハイド氏/スティーヴンスン作 海保眞夫訳

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あまりにも、あまりにも有名な、二重人格を描いた小説。
チェスタトン“詩人と狂人たち”を読んでいて、終わるのがもったいなさすぎて合間に読んだ作品。

下記あらすじにある通り、
“医師ジーキルは自ら発明した秘薬によって兇悪な人物ハイドに変身するが、くり返し変身を試みるうちにやがて恐るべき破局が…。人間の二重性を描いたこの作には天性の物語作家スティーヴンスン(1850‐94)の手腕が見事に発揮されており、今も変ることなく世界中で愛読されている。映画化されること実に70回という。新訳。”

まさに“天性の物語作家”!
有名すぎるゆえ内容はわかってしまっている、にもかかわらず相当面白い!
訳者の方のあとがきにあるように、
“やはり「高度の哲学的著作」というより「巧妙なフィクション」”
とも言えるけれど、哲学的示唆に富みかつ最高にエンタテイメントな傑作。
これはチェスタトンにも共通するところ。
これらは両立可能なのだということ。
天才ならば、ですが、無論。



“・・・すなわち、人間は一個の国家であって、内部には雑多で独立した住民が互いに対立し合っている。
 ・・・私が人間の本源的二元性を明白に自覚するにいたったのは、道徳面においてであり、それも私自身をとおしてであった。意識の内部では善と悪の二つの性質が争い合っているが、私が自分をそのいずれか一方の人間だと誤り無く指摘できるとしても、実は本質的に私がその両者だからにほかならないことを悟ったのである。
 ・・・善と悪という互いに無縁の存在が一緒に束ねられていること、すなわち、両極端なこれらの双生児が意識の胎内で激しく争い合い、哀れな宿主を苦しめていることこそ、人類の災いではなかろうか。・・・”


えぇ、えぇ、まさに。
おっしゃる通り。
いずれが欠けている人間もいない。
そしてその分離は、自然の理に反したこと。


古屋実さんの漫画「ヒメアノール」の森田くんを思い出した。
カポーティの「冷血」の二人組を思い出した。

悪に抗えないなら善を消してしまいたい、それなら楽なのに。
罪を犯すにしても、罪を裁くにしても。

いや、むしろ「悪」と決め付けた方が楽だからといってそう思いこんでいないだろうか。
そういう間違いを犯していないだろうか、「死刑」という罰は?

いずれも欠けている人間はいない。
悪のない人間も、
善のない人間も。

「死刑」は、決め付けて楽になりたいという脳の衝動の表れでは?

善か悪か、完全にどっちかだったら、ほんとに楽だ。
でもそうじゃないのでは?
ジーキル博士を読んで一層そう感じました。

清水玲子さんの「秘密」の中で、貝塚という犯罪者は完全な「悪」として描かれていたのを思い出す。
生まれたときは違っている、善悪兼ね備えていたとしても、過程で完全に「悪」になりうるか?
・・・わからない。

カントは何と言うだろう?
少なくとも死刑を容認することはない気がしている。

善悪何れも、神が/自然が、与え賜うた性質。
それは事実。
何度生まれ変わったって、世代が変わったって持っている性質。
苦悩をさぼるな、ということか。
うん、きっとそう。


悩み苦しみ痛み、それこそが生きている実感だ、と言ったジッド。
改めて、凄い。

平凡な自分という人間は、善悪おそらくどちらも極端ではないのだろう。
あるいはそのいずれかの発動は、“運”に依存していると言えるかもしれない。

どちらも抱えて生きている、だから理解や許容が生まれるはず。


サンデルの「これからの正義の話をしよう」やW.ジェイムズ「プラグマティズム」を読んでいるのですが何を読んでもカントが読みたくなる。

三大批判を読み終えるのはいつになるでしょうか。
心底頭良くなりたいこの頃です。


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2010年12月23日

MUJI 無印良品

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ついに出ました公式本!
2年前に買ったイギリスで出版されたBRANDS A TO Z MUJI / Chen Jiaojiao、買ったけれど当然英語だし、日本でもこういう本でないかなぁ、と思っていたので即買いでした。

原さん深澤さんをはじめとする錚々たる方々のインタビューはもちろん、
良品計画の歴史や思想、いやもう愛と魂が存分に感じられて益々I love MUJI!!!!
・・・なこと間違いなしの1冊。

MUJIファンの方でなくとも、“ものづくり”、ひいては資本主義のあり方について考えるための良質の刺激を頂ける良書。


“「これがいい」ではなく「これでいい」”。
“MUJIでいい”。
その難しい立ち位置。
その“引き”具合が心地良い。

そう、Appleのプロダクトと共通するものを感じられる。

それは単に自己主張する商品よりもずっと難しく、生み出すための思考を一層必要とする。

良質で、適正な価格。
単なる消費者ではなく、思想に共鳴した消費者を摑む。
とてもエレガントな啓蒙のかたち。

受動的な消費ではなく、能動を引き出す“もの”たち。


MUJIの思想に感動したことがきっかけで、原研也さんのファンになった。
この哲学を表現できるアートディレクターはそうはいない。

原さんのおっしゃる、“欲望のエデュケーション”。
飽和した消費社会に投げられる正しい提案。
この“正しい”、“心地よい”と感じられるものを生み出すことがどれほど難しいか。

そして同時にそれは、美しい。


MUJIファンは、崇拝者ではない、盲目的ではない。
いちいち彼らを納得させ続ける事は、確固たる思想がなければ不可能。
厳しい目にさらされ続けているからこそ、名作が生まれ続ける。
ファンは思想を共有しているから、改善のための意見が集まる好循環。


私が日本で一番好きな会社は、間違いなく良品計画です。
MUJIとでかい本屋が2つある今の街はかなり幸せ。


すこしオススメを。
MUJIのアールグレイティーは、一度飲んだら他のが飲めなくなります。
ラムチョコレーズン、天才的に美味。コーヒーの最高のお供!
シャンプー&コンディショナーは“5種の果実フレグランス”、ちょっと高級ですが良い香り&つるつるさらさらになります。
バスソープは見た目もかわいい半透明グリーンのアボカド。
良い香りです。
アロマオイルを垂らせる加湿器も手放せない。
ケース別売りの食品用ラップも、ありそうでない。
捨てるときに箱から刃を取ったりしなくて良いし、エコです。

その他書ききれないほど家具家電キッチン用具や食器洋服コスメ、食品まで。
まさに“おはようからおやすみまで”、お世話になってます。

今すぐ行きたくなってきた!
明日寄って帰ろう。

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タグ:MUJI
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2010年11月29日

無知について / ペトラルカ 近藤恒一訳

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反省の多い毎日です。
頭や身体を鍛えるには、何に於いても、忍耐。
今日も写真を撮るときに「目を開けてください」と何度も撮り直しされました。
何人の人に何度言われたかわからない、なのにまだ目をあけていられないのはなぜだろう?
これもたぶん運動神経の無さの現われのひとつでしょう。
こんな小さなことひとつできない自分・・・自惚れるなんて100年早い。
そんなことを考えていたら、3ヶ月ほど前に読んだこの本のことを思い出しました。

ルネサンス期の代表的知識人であるペトラルカ。
以前読んだ「わが秘密」にもあらわれていた謙虚さ、と同居する自尊心。


“・・・わたしは語らねばなりません。
 語るほうがよいからではなく、語らないのはむずかしいからです。
  理性は沈黙をすすめますが、おもうに当然の憤慨や至当な悲しみが、ことばを絞り出すのです。”

と、「序」で語る。その理由は、以下あらすじより。

“善良だが無知と同時代知識人の批判を喰った著者は?アリストテレスを神とみて哲学=自然哲学とする一派への論駁と、人間主義と反権威主義、文献収集と古典語研究、雄弁やプラトンをめぐる基本構想を具体的に述べたルネサンス人文主義の宣言書。晩年の主著。”


“語らないのはむずかしい”に非常に共感した。
その切実な欲求、きっと誰もが持っている。
だから書くことを欲するし、語る相手を欲する。
人類にお酒が必要な理由も、このあたりにあるような気がした。
自白剤が精神には必要なのだろう。
もちろん、不要な人がいることも知っているけれど。


「序」より、
“わたしは、人類が労をいとわず躍起になって得ようとしているほとんどすべてのものから逃れているのに、やはり安らぎを得られなかったのでしょうか。
 すでに衰え疲れはてたこの老年も、わたしを自由にしてはくれなかったのでしょうか。
 おお、しぶとい毒薬!
 老年はわたしをすでに公務から解放してくれたのに、まだ嫉妬からは解放してくれません。…”


彼の友人(だと思われていた人たち)は、彼の名声に対する嫉妬のあまり彼を訴えた。
少し、ソクラテスを想起させる状況。
もちろんペトラルカは死刑ではありませんが。

人を羨まない、妬まないというのはよほど難しい。
その難しさは知っている。
ちょっとばかり周りを見さえすれば、自分に欠けているもの、持ち得ないものなんてたくさん見つかる。
そこで人を攻撃こそしないまでも、「いいなぁ」なんて言い出したらキリがない。
それを向上心につなげるか、あきらめるか。
全部いずれかで済ませることは難しい。

不足を感じる心は、不安定になる。
その不安定を、すべて自分を変えるエネルギーにできたらどんなに良いだろう、難しいけれど。
いずれにせよ、自分が不足しているからって相手を攻撃する理由にはならない、すべきでない。
あたりまえだけどさ。
難しいよねこれが。
・・・反省の多い毎日だ。


U。

“まことに学識なるものは、(これはまれなことですが)よく教育された善良な精神に受け取られるのでなければ、多くの人を無分別にし、ほとんどすべての人を高慢にします。”


“文芸というものは、それだけを目的に習得されますと、人間を高慢にし、破壊するだけで、形成してくれません。…わたしが文芸をまじめに用いたとき文芸に求めていたのはただ善い人間になることだけで、それ以上は何も求めませんでした。”


本当に、自分の高慢が恐ろしい。
自分で自分の邪魔をしたくない。
高慢の種を駆逐し去ることはできるだろうか。



V。

“…善良になることを欲したなら、これはすでに善でしょうし、欲しはじめるだけでも善でしょう。
 そして善良になろうと欲することは善性の一部なのです。”

そう、言って貰えて嬉しい。



W。

この章の注釈でペトラルカのアリストテレスに対する誤解を読んで、驚いた。
「アリストテレスも1人の人間、間違うことだってある」と言うペトラルカも、ただの1人の人間なのだ。
間違いを恐るなかれ、間違ったって、素晴らしい人はやっぱり素晴らしい。
とちゃんと読者に、私に、伝わった。


ペトラルカはかなりキケロに傾倒しているので、キケロを非常に読みたくなった。
このW部「古代作家について」を読んで「紀元前=キリスト以前」なのだ、ということを再認識。


パウロの引用、
“誰が正しいかあきらかになるためには、異端の存在も至当です。”

最近読んだ井筒俊彦さんの「イスラーム文化」でも感じたこと。
世界宗教の懐は深く、だからこそ世界宗教たりえたのだ、ということ。
異なるものを排除していては、成長や改善がない。

まるく、まるく。
まるくなりたい。
まだまだ自分、偏狭。
情けない。


Y、終章。

“かれらもわたしのように自分の無知に気づいていたなら、
 おそらく他者の無知について判決をくだすことをひかえたでしょう。
 …じっさい、ひどい恥知らずならともかく、いったいだれが、
 自分のうちに認める無知を他者のうちに弾劾するでしょうか。”

えぇ、まったくおっしゃる通りです。
つまり彼らは、ひどい恥知らずなかわいそうな人なのですから、そいつらが何と言おうと放っておけば良いじゃないですか。

・・・と思った瞬間、冒頭の一文を思い出した。

“語るほうがよいからではなく、語らないのはむずかしいからです。”


えぇ、きっとまったく本当にそうなのですね・・・。
あなたが語って記してくれたおかげで、私は今たくさんのこと、たくさんの気持ちを知ることができました。
ありがとうございます。



“ひとは知者であるほど知に貪欲で、無知であるほど知に冷淡です。"


本当にそうですね。
もっと知りたい、考えたい、貪欲に。

貪欲貪欲、と頻繁に言っているのも、しょこたんのことが大好きな理由のひとつです。
しょこたんを見習って、貪欲に行こう。
明日を今日より良い日に!


ところで読み終わった本がたまってます。
早く復習/定着しなきゃ。。。

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2010年11月21日

+81 VOL.50/WINTER 2010 Designers' Thoughts issue / 50th issue anniversary

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50号!おめでとうございます♪
大好きな雑誌だから嬉しい!!

これを記念して過去50号のセットが発売されるそうです。
絶版だった号だけ欲しい・・・けどほとんど持ってるのでそれでも買うか!?
かなり迷いどころ。。。
詳細はこれからのようなので、要チェックです。

さぁ、「アイデア」に引き続いて脳に良質の刺激と快感を!


PETORONIO ASSOCIATES、分厚くて素晴らしい内容の雑誌「self service」を手がける方々。

この高級なハードカバーの雑誌、日本ではなかなか手が出ない・・・
TSUTAYA六本木くらいでしかお目にかかれません。
+81のありがたいこと!


p28、NON-FORMATのインタビュー・・・このページのタイポグラフィ!
「かたち」が語るもの。
文字が波打つ、このデザイン。
見ることで、使われていなかった神経が目覚めてゆく。
それは、知らなかった世界を、知らなかった自分を知ることにつながる。
なんて贅沢な快感!!

数字や科学や理屈じゃないもの。
だから、良い雑誌は生活に欠かせない。
「本」にはない、雑誌ならではのこの「編集」。
+81も、間違いなく紙で残っていく雑誌のひとつ。
値段3倍でも良いと思います。買います。


ここに載っている方々は皆、目が知性とアイデアと、「正」のパワーで輝いてる。
殉教者の澄んだ目も、汚れを知らない子どもの目も魅力的だけれど、話をしたくなるのはこういう目。

誌面の視覚的面白さも勿論ありますが、
インタビューと作品を見て、こういう人たちを知ること、
それもこの雑誌を買う目的のひとつだったのだと、今日気がつきました。



第2特集、+81 Cover&Editorial Design Archives。

表紙を飾ってきたアーティスト達のインタビューや裏話、候補だった他の作品など。
これだから記念号って大好きだ!!

とくに“The other ideas”は貴重!
思考プロセスを垣間見られる、ごくごくほんの一かけらでも。



そして、稲葉英樹さんインタビュー。

シフトの刺激的な広告を思い出します。
雑誌を見ていて、突然出会うあの感じ。
最近無いな、そういうの。


そして大大大ファンの、Kamikeneさん!
写真も載ってる!

vol.32の表紙には参った、完全中毒になりました。

“断定してしまう誌面デザインではなく、
 曖昧なものは曖昧なままに”

そういう方だからこそ、だったんですね。



たった1Lの人間の頭の中は、∞∞∞!

それをもっと感じたいのかも知れない。
目で見て。音で聞いて。
こういう欲求を大事にしよう。

コーネリアスのPV、今すぐ見たくなった。
音と映像の∞、天才!
先日、幸運なことに900円で「FIVE POINT ONE」を入手したばかり。
またライブ見たいなぁ。


とにかく、この50号は必見です。
お買い逃しなく!!!

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