
前回の投稿から随分時間が経ってしまいました。
できること、すべきこと、したいこと、
繁忙期の仕事。
疑うこと、信じること、考えること、考えないこと。
頭の中がいつもいっぱいでした。
3月11日以降、日本が変ったように、自分自身も大きく変ったように思います。
まず情報収集の仕方。
Twitterは、発信でも受信でも、責任を持って考えることが必要になる。
肩書きや権威よりも、“人間性”が最も力を発揮する(もちろん受け手にもよるけど)。
もともとテレビはほとんど見なかったけれど、今は壊れたままアンテナにも繋いでない。
お笑い番組は大好きだけど、エンタメ以外は“ブロードキャスト”はもういい。
「能動力」の必要性が高まった、という意味で世間の情報(コンテンツ)ビジネスも大転換期。
訪れつつあった電子書籍の波もいよいよ?
だけど私は、電気がないと読めない“本”はあんまり欲しくないなぁ。
いざというとき、大事な本が全部データならすぐに全冊持ち出せるけど、電気がなけりゃ意味がない。
あたりまえだけど、一長一短。これから棲み分けが進むはず。
この3ヶ月の間もずっと本ばかり読んでいました。
それは相変わらずだけど、外国人ばかり読んでいたのが一転、気付くと国産の著作物ばかり。
石牟礼道子さん、和辻哲郎さんとともに読んでいたのがこちら、佐野洋子さん。
あまりにも有名な絵本、「百万回生きた猫」を大人になって初めて読み返したのが昨年末。
そう、追悼ということで書店に大きくコーナーが設けられていたのでした。
たまたま手にとってみて、裏表紙に書いてあったこの文章。
“呆けてしまった母の姿に、分からないからこその呆然とした実存そのものの不安と恐怖を感じ、癌になった愛猫フネの、生き物の宿命である死をそのまま受け入れている目にひるみ、その静寂さの前に恥じる。生きるって何だろう。北軽井沢の春に、腹の底から踊り狂うように嬉しくなり、土に暮らす友と語りあう。いつ死んでもいい、でも今日でなくていい。”
“いつ死んでもいい、でも今日でなくていい。”
この響きがどこから来たものか、一体どんな方なのか。
とにかく読んでみようと思わされて購入。
私は、佐野さんみたいなおばちゃんになりたい。
女でも男でもなく(悪い意味でなく)、とっても人間らしい“おばちゃん”。
若輩の自分にはない人間の丸みと、一方で子供みたいな、というよりイノシシみたいなまっすぐさをあわせもつ佐野さんは、きっとやっぱり非凡なんだろう。
この本を読んだことで、数ヶ月滞っていた負の思考がすっきりと流れだした。
自由。猪みたいに走りたい。でもどこへ?
違う種類の悩みと思考に辿りついた。
これまでとは少し違う、少しだけ進んだような。
とってもステキな人。出会えてほんとに嬉しいです。
「声は腹から出せ」。
浪曲というものは全く初耳だったので是非聞いてみよう。
本を読んで声を出して笑ったのは久し振り。
“テレビは悪いなぁ、どんどん人心を荒廃させていく。
誰も人の道など説かない。説く奴はうさんくさい。
・・・時代と共に滅んでいったものが戻って来ることは決してない。
失ったものの代りに、私たちは豊かな物質生活を手に入れただけなのだろうか。”
いつもトレードオフだと思う、世の中そういうものだとなんとなく思う。根拠はない。
失った心もあれば得た心もきっとある。
孤独になっていくのは悪い一方じゃない、気付くこともたくさんあって、一緒にいられることの有難さを一層意識する、たとえばそんな風に。
「フツーに死ぬ」。
“私は毎日フネを見て、見るたびに、人間がガンになる動転ぶりと比べた。
ほとんど一日中見ているから、一日中人間の死に方を考えた。
考えるたびに粛然とした。私はこの小さな畜生に劣る。
この小さな生き物の、生きものの宿命である死をそのまま受け入れている目にひるんだ。
その静寂さの前に恥じた。私がフネだったら、わめいてうめいて、その苦痛をのろうに違いなかった。
私はフネのように死にたいと思った。人間は月まで出かける事が出来ても、フネの様には死ねない。
月まで出かけるからフネの様には死ねない。フネはフツーに死んだ。
太古の昔、人はもしかしたらフネの様に、フネの様な目をして、フツーに死んだのかもしれない。
「うちの猫死んだ」とアライさんに報告したら、「そうかね」とアライさんはフツーの声で云った。”
私の初めての家族だった猫の最期が近づいたときを思った。
今でも、家でなく病院で死なせてしまって済まなかったと思う。
私のわがままで、望みがあるうちは何かしたい、なんとかなるんじゃないか、って。
輸血に耐えられなくて死んでしまった。本当にかわいそうなことをした。
あの子は、もう受け容れて静かにしていたのに。
月まで出かけるから、医療が発達しているから、知恵の実を食べたから猫のように死ねない。
人間が持てないもの、たくさんあるな。
でもそれでいいんだ。
「そうならいいけど」。
“・・・別の友人は、徘徊する母親の腕と自分の腕とをひもでまきつけて、何年も看護をし、あびる様に酒を飲んでいた。
そして母の通夜の晩、脳出血で自分も死んでしまった。
その時も私は感想を持てなかった。どんな感想も言葉もその事実の前に無力だった。
人は長生きしすぎたのだ。”
痴呆、介護のお話。誰にも他人事じゃない。
数年前亡くなった祖母を思う。
息子である父や叔父のことも忘れかけていたけれど、孫の私達が会いに行ったことはよく覚えていてくれたそうだ。
赤ん坊に還っていくよう、とは良く言われる表現。
「苦海浄土」の水俣病の患者さんの描写を連想する。
「人間に戻りたい」という言葉。死ぬより苦しいんじゃないか。想像しかできないが想像なんか及ばない苦しみ。
どっからどこまでが人間なのか。
悪魔みたいな奴でも人間なのに。
「人間」なんて、ただの言葉。その枠の中に何を入れるか、何を入れるべきか。
近頃私は、ドストエフスキー「悪霊」のキリーロフの真似事みたいな方向の思考へ行ってしまって、これじゃいけない気がしている。
“「でも、餓死する者も、女の子を辱しめたり、穢したりする者もあるだろうけれど、それでもすばらしいのですか?」
「すばらしい。赤ん坊の頭をぐしゃふしゃに叩きつぶす者がいても、やっぱりすばらしい。叩きつぶさない者も、やっぱりすばらしい。すべてがすばらしい、すべてがです。・・・」”
(新潮文庫版下巻 キリーロフとスタヴローギンの会話 p452 江川卓訳)
カントに通じるこの思考。
「理性あるものは皆尊敬に値する」云々。
そこに至った理由を知りたくて著作を読んでいるけど、先は長い。
古屋実さんの「ヒメアノ〜ル」はあらためて凄い。
連続殺人犯の森田をああ描ける人、稀にみる天才漫画家と思う。
清水玲子さん「秘密」も凄い。
描きたいものがあって、それを描くための設定が素晴らしい。
死者の脳内に残る画像を見ることができる装置が発明された未来。
犯罪者、または被害者が見た世界を「事件解決のため」といって覗く、警察組織「第9」。
こんなに「人間」を問うストーリーを他に知らない。
カポーティなら「冷血」。
ドストエフスキーは言わずもがな。
ずっと人は問い続けている。
常に新たな思考を加え続けて、アップデートする必要がある。
そして答えが属人的だから、世代が代るたびにいつまでも続く。
一人の中でも変わる、人が違えばそれぞれ変る。
観念して正面から向き合うのが一番良い。
めんどくさい気持ちもわからなくもないけど、後回しにしてもいい事ないよ。
自分だって人に言えるほどのこと全くないんだけど、言いたくなっちゃう人はいっぱいいる。
このおせっかい根性、おばちゃんへの第一歩として前向きに捉えよう!?
「フツーじゃない?」。
“・・・そのうちに、ドキドキの中にワクワクという気分が混ざり込んで来た。
とんでもない冒険にただ一人で挑んでいるヒロイックな気分が、恐怖とまぜこぜになって来た。
おお、私は生きている。
激しく生きているなあ、と恐怖は私に教えるのだ。”
ジッドみたいだ。こういう肝の据わった人大好き、尊敬。
「出来ます」。
“ビューティー・コロシアム」という番組がある。・・・
皆整形後の自分に満足し、別人のように明るくはきはきして自信に満ちるのである。
私はいつもながらショックを受ける。
ブスのまま明るく人の目をギッと見ながら生きてきた私。
「ブスはあっち見てろ」と云われても、「手前、自分の顔みてから云え!!」とどなり返していた私。
手術後は皆あいまいな同じような顔になる。
ああ、世界は平らになる。
デコボコがあってこそこの世と思うのである。気に食わん。・・・”
うん、でも平らになってみてからしかわからないこともある。
失うのは悲しい、元に戻らない。
引き換えに得るものが無いことは無い・・・と思いたいだけかもしれない。
そして写真を見るかぎり、佐野さんはブスじゃありません。
“日本中死ぬまで現役、現役とマスゲームをやっている様な気がする。
いきいき老後とか、はつらつ熟年とか印刷されているものを見ると私はむかつくんじゃ。
こんな年になってさえ、何で競走ラインに参加せにゃならん。わしら疲れているのよ。
いや疲れている老人と、疲れを知らぬ老人に分けられているのだろうか。
疲れている人は堂々と疲れたい。・・・”
そういう佐野さんはとってもエネルギッシュだ。
若い頃はもっとそうだったんだろうな。
「金で買う」。
“友達が、寝る前に、「あんた、おみやげって土産っていって、こういうもんなんだねェ」と云った。
本当に土産っていう字をしみじみ思い描いた。
私達は、どこかにお土産をもってゆく時、金で買う。当たり前だと思っていた。
「そーか」「そうだったんだァ」
・・・私がもらうもの、私が人にあげるものは全て、金で買うものである。
そして金を得るために私は一生を費やして来た。・・・
当たり前すぎて愕然とする。よく生きてこられたよなあ。
山の尾根を片足でとびはねて生きてきたみたいでぞっとする。
いくらこの先長生きして、ここで暮らしても、私は土地の人ではないし土地の人にはなれない。
所詮都会もんの気まぐれな生き方だと肝に銘じている。”
とても共感した一文。
とくに危機的な状況になったときに感じるもの。
均質化の強制力は貨幣経済から来た。
軽井沢に住み、農業で生きている人との交わりを羨ましく拝読しました。
豊かさのモノサシが世間的に1つになったからって、自分もそうならなくても良い。
モノサシが1つなことで劣等感に焦る人の放つ戯言など無視して良い。
サラリーマン家庭に生まれ、自分も会社員だけど、そこに強制を感じる必要はない。
ただ、羨ましくても飛び出す勇気もなかなか持てるもんじゃないということ。
やっぱり、失ったものは大きい。
じゃあ、得たものは?
「あとがきにかえて」。
“・・・そういう時、私は深くしみじみ腹のもっと下の方から幸せだなあ、こんな幸せ生れてはじめてだなあ、今日死ななくてもいいなあ、と思うのだった。
意味なく生きても人は幸せなのだ、ありがたい事だ、ありがたい事だと、ヘラヘラ笑えて来た。
命をころげ落ちながら、ヘラヘラ笑う事にぎょっとする事もあったが、顔はヘラヘラし続けた。”
そうか、わかった。
感受性がある人だからなのだ。
都会的な、表面的な生活は感受性に乏しくてもある程度楽しめるだろう。
たくさんお金があれば幸せ、というモノサシしか見つからないだろう。
もちろんお金が無さ過ぎると困ることも多いけれど。
小さな野の花に喜ぶ心。
どこにいても幸せになれる心。
地面を踏みしめて歩くこと。
今だからこそ、佐野さんの言葉たちにとても力を貰いました。
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